桜川のサクラについて


桜川のサクラ  Flowering-cherry of Sakuragawa





                 目     次 
            
          第1章 「桜川のサクラ」その歴史背景

          第2章 「桜川のサクラ」植物学的考察

          第3章 「桜川のサクラ」に関連する資料

              ◆磯部桜川公園

              ◆櫻川磯部稲村神社  

              ◆『櫻川事蹟考』と石倉翠葉(重継)   

              ◆名勝小金井桜 




「桜樹両岸にならび立ちて、長堤十里一帯の雲なる隅田の川辺も遥かに劣る花の名所」

 我々が普段“磯部のサクラ”と呼んで親しんでいる「桜川のサクラ」は、古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどのサクラの名所でした。




 平安時代の歌人紀貫之が「常よりも 春べになれば桜川 波の花こそ まなくよすらめ」と詠ったのは、まさにこの桜川のことです。

 残念ながら、紀貫之自身は桜川を訪れてはいませんが、東国の桜川の評判が遠く平安京の都人にまで届いていた証しでもあります。







 室町時代には、櫻川磯部稲村神社宮司が時の関東公方足利持氏に花見噺「桜児物語」を献上、これを基に、時の将軍足利義教が幽玄能の大家世阿弥元清に作らせた謡曲「桜川」の舞台となりました。






 江戸時代になると、水戸黄門として有名な水戸光圀や笠間藩主牧野貞喜なども度々桜川の地を訪れ、サクラを愛でたと言われています。

 特に水戸光圀は、偕楽園前を流れる小川(見川川)のほとりに桜川のサクラを移植し、その川を「桜川」と名付けてしまうほどこの桜がお気に入りでした。
(現在も水戸市内に「桜川」は流れています)



4代将軍徳川家綱が常州桜川(現桜川市岩瀬地区)の桜を
植えさせたことが始まりと書かれている


 四代将軍家綱の隅田川堤への移植、八代将軍吉宗の玉川上水堤への移植をはじめ、江戸の花見の名所づくりには「桜川のサクラ」が大量に移植されています。
(現隅田公園の「墨堤植桜の碑」や、玉川上水沿い「小金井桜樹碑」に桜川のサクラの記述が見られます)



 小金井堤の桜の縁起を辿ると「吉野桜50本と桜川の桜50本が交互に植えられた」とあり、この事実を見ても当時の「桜川のサクラ」の評判が伺えます。
(※第3章「桜川のサクラ」関連資料内『名勝小金井桜』の項参照)





明治時代になると、当町出身の俳人で文学者である石倉翠葉(重継)氏が、当時衰退の危機にあった「桜川のサクラ」を再興しようと、弱冠20歳にして『櫻川事蹟考』を出版。
(※第3章「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)



この本の出版と、そのための調査が礎となり、大正になると帝国大学(現東京大学)の教授であり、植物学者で“桜博士”と呼ばれていた三好学氏が当地の調査に訪れます。
(※第3章「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)

結果、大正13年に国から「名勝桜川」として指定を受けることとなります。




三好博士はこのとき、山桜の中でも学術的に非常に貴重な種類として11種を選び、これを自身の出版した『櫻花図譜』にも掲載しています。


大正10年発行の「櫻花図譜」(解説本「櫻花概説」がセット)



この11種類は、後の昭和49年に国から「天然記念物」として指定を受けることとなります。(ゼミナール応用編「桜川のサクラ天然記念物指定11種」参照)




 名勝指定地である櫻川磯部稲村神社参道馬場付近は、指定後しばらくはサクラの時期になると、大勢の花見客で賑わうようになりました。
しかし、飲めや歌えの花見は徐々に風紀が乱れ、近隣の芸者衆が時期になるとすべて磯部に(客引きの為に)集まるほどで、客の取り合いや芸者の取り合いといった騒ぎが頻繁に起きるようになります。
こんなことから「磯部の花見は“喧嘩花見”」との悪評が立つようになり、一般の花見客から敬遠されるようになっていきます。

また、「花より団子」の花見によって、サクラは長時間にわたって根を踏みつけられたり、枝を折られたりしたため、徐々に樹勢が弱り、花見客を敬遠するようになった地元の人たちの感情もあってか管理も疎かになり、桜も徐々に衰弱していきます。

また、明治以後、染井吉野の群植による圧倒的な桜の景観が花見の主流となっていったこともあり、山桜である桜川のサクラの花見客は激減してしまいます。

いよいよ桜川のサクラも存亡の危機に瀕するに当たり、これを憂いた人たちの助言により、昭和49年に三好学博士が選んだ11種のサクラが国の「天然記念物」として指定を受けることになります。



その後、昭和54年には国指定の名勝地を新たに造成し、都市公園としての拡張整備が計画されると、翌55年から6年をかけ昭和61年に、総工費3億円、面積44,000(うち名勝指定地7,000)の「磯部桜川公園」が完成しました。



しかし、残念なことに、都市公園として整備はされたものの、桜の植樹だけで、その後も管理らしい管理は行われておらず、密植による生育の悪さなどから枯死する木や病気にかかっている木が多数放置された状態となっています。

近隣にも染井吉野や八重桜など、園芸品種の桜を群植したお花見スポットがいくつも出来たこともあり、樹勢の弱った山桜が主体の公園は、今では桜の時期にも地元の人すら訪れなくなってしまいました。

日本でも最古の桜の名所として1千年の歴史を持つ由緒あるこのサクラが、市民からも忘れ去られようとしているのは非常に残念なことです。


サ ク ラ サ ク 里 プ ロ ジ ェ ク ト

こういった現状を知り、この山桜を見直そう、保護・育成しもう一度世に出そうと動き出した団体があります。
桜川市岩瀬商工会青年部を中心に活動する「サクラサク里プロジェクト」です。
この「桜川のサクラ」を地域活性化に結びつけるため、地元の商工業者がオリジナルの商品を開発販売し、売り上げの一部を桜川のサクラの保護育成に当てようという動きです。
活動の輪はプロジェクト以外にも広がり、平成19年には(財)日本花の会桜川支部が同財団の全国26番目の支部として設立されました(現在会員数41名)

平成20年には市の木に「桜」が制定されました。







◆バラ科サクラ属
  ウメ・モモ・スモモもサクラの仲間

◆自生種と栽培品種

※日本に自生する桜(自生種)・・・9種類
 山桜・大山桜・霞桜・大島桜・江戸彼岸桜・豆桜・丁子(チョウジ)桜・
 高嶺(タカ ネ)桜・深山(ミヤマ)桜

※栽培品種
 世界に例を見ないほど多い(300種とも400種とも言われる)
 「染井吉野(ソメイヨシノ)」、「普賢象(フゲンゾウ)」、「関山(カンザン)」、「御車返し(ミク
 ルマガエシ)」、「御衣黄(ギョイコウ)」.....etc.







◆日本を席巻した“スーパー桜”ソメイヨシノ



※江戸末期に発見された大島桜と江戸彼岸の 交配種(江戸染井村の
 植木職人が販売)
 当初は「吉野桜」として売り出されたが、吉野山の桜と混同して紛らわしい
 ということで、発売元の染井村の名を取って「染井吉野」になった。

※日本に咲くサクラの80%はソメイヨシノ
 葉より先に花が咲く、花付きの良さから明治時代になり流行。
 大正・昭和天王の即位記念等で大量に植樹された。
 戦中は「一斉に咲き、一斉に散る」その特徴から「散り際の潔さ」として戦
 意高揚に利用された。
 成長の早さ、管理のしやすさから、戦後各地の花見の名所づくりに大量に
 植樹された。



※たった1本の木から接ぎ木で増やされたクローン
 種から育てられない=クローン (九州のソメイヨシノも青森のソメイヨシノも
 まったく同じ遺伝子構造)
 =同じ場所では一斉に咲き、一斉に散る(「桜前線」はクローンだからこそ)

※クローン故の早すぎる寿命(約60年といわれる)
 宿命的に持つ病気「天狗巣病」の蔓延もあり、近年は染井吉野に代わる
 桜を植えるところも多い。
 =(財)日本花の会では現在、染井吉野の育成・配布を行っていない。




◆自生種の山桜(霞桜)



・ソメイヨシノよりやや遅く咲く
・1本1本花の形・色も様々(白〜ピンク)で開花時期も違う
・花と一緒に様々な色(赤・茶・緑)の芽が開く
・葉の裏側が白っぽい



山桜の一種

 ソメイヨシノ以前は「桜」と言えば、この「山桜」を指した


山桜の一種(淡紅色)

※霞桜・・・山桜よりも更に遅く咲き、山桜よりやや小振りな白〜ピンクの花
 を咲かせる。花と一緒に緑〜緑黄色の芽が開く



霞桜 芽の色が緑のものが多い

◆自生種に見る桜の特徴=自家不和合性

※桜は人と同じように、特定の他個体、他系統の株とでなければ有性生殖
 しない
 =同じ遺伝子では生殖しない(だから1本1本全て違う遺伝子を持つ)



大正時代に帝国大学(現東京大学)の教授であり、植物学者で“桜博士”と呼ばれていた三好学氏が、当地の桜の調査をした際、山桜の中でも特に学術的に貴重と思われるもの(11種)を自身の図鑑『桜花図譜』に掲載。



桜川匂              樺匂               初見桜

初重桜              大和桜              源氏桜

白雲桜              薄毛桜              青桜

青毛桜              梅鉢

昭和49年、衰退の一途にあったかつての桜の名所と共に、この貴重な山桜の絶滅を危惧し、国の天然記念物として指定を受けることとなる。
(ゼミナール応用編「桜川のサクラ天然記念物指定11種」の項参照)









国指定史跡名勝(大正13年12月9日)の指定を受けた櫻川磯部稲村神社(※次項参照)の参道(と馬場)付近を広げる形で昭和55年から整備が開始され、昭和61年に完成した桜川市最大の都市公園。



園内には山桜を中心に(約500本)計755本の桜が植えられているが、造成部分には天然記念物指定種はもちろん、山桜が殆どなく、染井吉野や八重系の園芸品種が多いのは残念である。

名勝指定ゾーンにも、補植の際にソメイヨシノが多数植えられており、いかに管理者からも山桜が蔑ろにされていたかが伺える。

近年、管理不足から山桜の樹勢が急激に弱っており、サクラサク里プロジェクトが調査・保護に乗り出した。

また、園内には数々の記念碑等も見られる。
先の名勝指定記念碑、国指定天然記念物(昭和49年7月16日)記念碑、『桜川事蹟考』(※次々項参照)の著者である石倉翆葉氏の顕彰碑である「諷咏堂桜川顕揚記念碑 」と同氏の句碑の他、薬師如来堂や二十三夜尊などもある。

しかし現在、地元市民を含め、桜の最盛期にも花見客は非常に少なく、開花期以外は、殆ど訪れる人もいない。

それを象徴するように、(大型の入れない)20台程度の駐車場も「名勝桜川の桜まつり」の日以外満車になることはない。



毎年4月には市観光協会による「名勝桜川の桜まつり」が行われており、この日ばかりは公園脇の町道は歩行者天国となり、露天商なども軒を連ねるため、かなりの人出で賑わう。

また、4月の頭から約2週間を「桜まつり」期間とし、公園内に雪洞やパンフレット等を設置するためのテントなどが設営されている。



◇概要
昭和54年10月11日都市公園として計画決定
造成期間 昭和55年〜昭和61年
規模 全体面積44,000平方(うち7,000平方辰鰐松〇慊蠱)
総工費 3億円

桜川市磯部740番地2






謡曲「桜川」の聖地であり、「桜川のサクラ」に縁の深い神社。
毎年、数多くの謡曲団体が奉納に訪れる。

境内には天然記念物指定種の山桜が多く、また謡曲「桜川」に謡われる「糸桜」も見事である。

毎年桜の時期には数多くの観桜客が訪れ、宮司である磯部亮氏がガイド役として訪れた人たちを案内している。

磯部宮司は、代々「桜川のサクラ」の保存に当たってきたが、現宮司の磯部亮氏は近年、(財)日本花の会桜川支部の設立に尽力され、同会支部長として、またサクラサク里プロジェクトの良き理解者、協力者として、「桜川のサクラ」の保存や啓発に取り組んでいる。

◆由緒
景行天皇四十年(西暦111)十月、日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を此の地へ移祀したと伝えられる。

◆沿革
天慶二年(939)平貞盛、将門追討祈願、常陸西大社稲田姫神社関係文書(常陸国分寺極楽寺蔵)に新治郡礒部稲村宮として常陸二十八社(延喜式内社) の一に載せられ、仁明天皇嘉祥二年(849)水旱の際に折鏡ヶ池(桜川の源)において祈雨祭執行のことが伝えられている。
更に人皇百八代後水尾天皇礒部大明神の勅額を賜る(現存)
特に古来より安産守護神として崇敬され神札を授与する。

◆御神徳
天照皇大神    国土安泰 勝運 農業振興 学業上達 教育振興
栲幡千々姫命  産業振興 農工商振典
瀬織津姫命    厄払い 方位 方災除け
木花佐久耶姫命 安産子育て 山火鎮護  酒造守護
天太王命      開拓振興
玉依姫命     海上安全
天手力雄命    家内安全 作業労働振興
玉柱屋姫命    病気平癒
天宇受売命    芸事上達 長寿 成就祈願
倭姫命       心願成就
天児屋根命    災難除け
日本武尊     出世開運 金運 福徳

茨城県桜川市磯部779
Tel:0296-75-2838/Fax:0296-75-5967
櫻川磯部稲村神社HP




国の名勝、天然記念物に併せ指定を受けている桜川市(旧岩瀬町)磯部、桜川の内務大臣指定の碑の傍らに、「桜魚掬わば花となりぬべし」の句碑が、草に埋もれて建っています。


「桜魚 掬わば花と なりぬべし」の句が自然石に刻まれている

◆発刊までの経緯

実はこの句碑の主こそ、文明開化の明治の初期、徒手空拳で桜川保勝会を創設し、弱冠二十歳にして明治28年9月8日『櫻川事蹟考』一巻を自費出版するとともに、私財をなげうって桜川顕揚のため全生涯を捧げ尽くし、遂に大正13年12月9日史蹟名勝天然記念物保存調査会の保存指定36件のうち、名勝「桜川」として国指定を受けるに至った陰の功労者石倉重継氏のものです。



磯部桜川公園にある諷詠堂顕彰碑

石倉重継氏は、翠葉と号し、別号を「掃雲亭」のち花笠庵と改めましたが、昭和2年3月、旧笠間藩主牧野越中守貞喜君の俳号「諷詠堂金英」の諷詠堂の号を牧野家から授かり、諷詠堂とも号しました。



氏は、明治8年10月30日西茨城郡西那珂村(現桜川市)西飯岡28番地に、旧笠間藩士石倉又一の長男として生まれました。
父又一氏は、明治5年教育制度発布のとき笠間小学区(郡)取り締まりとして、初等教育の創設発展に努められた人です。

重継氏は、明治23年茨城県立中学校(元県立水戸一高)に入学するも翌年中退し、その後文学を志して上京します。
上京後は苦学の傍ら栗田寛、鈴木重嶺、上村涼松、福羽美静、尾崎紅葉等に師事し、文学、国文学、和歌、俳句などの教えを受けました。

明治27年6月、和歌の最初の師である笠松良昌翁を浅草小島町の邸に訪ねた時、桜川古跡の現況を問われ、重継の出生地からわずか一里の地にあるこれについて答えることが出来ませんでした。

すると、笹村翁から「和歌を研究しようというするほどの者になればこのように有名な花の名所が、しかも郷里にある桜川の歴史について知らないのは何事か」と叱咤され、これに赤面した重継氏は、その後櫻川事蹟の調査に全力を注ぐことになります。

苦しい日々の労働に従事する傍ら、ひたすら『櫻川事蹟考』の資料収集と執筆のため、筆舌に尽くせぬ苦労を重ねながら草案を完成させたそうです。

そこでその草案を「大日本史」の最後の編纂者彰考館、元老院出仕、東大歴史科教授栗田寛博士に閲覧してもらったところ、博士は重継氏のために快く資料を提供してくれました。

また、学習院大学教授で文学博士である土井頼国氏からは古歌鑑定考証などの手助を受けることも出来ました。

そうした資料を基に不備を補いつつ、3度目の事蹟考草案でようやく栗田寛氏の賞辞を得ることが出来たのでした。
(『櫻川事蹟考』には栗田寛氏が「我携一瓢酒二首」と題した序文が寄せられています)

明治28年4月、石倉重継氏は草稿を郷里の両親に送り、事蹟出版のための費用の捻出についてお願いします。

すると両親はこれを快諾してくれました。

喜び勇んで帰郷した氏は実地調査に桜川を訪れると、櫻川磯部稲村神社宮司磯部佑光翁が非常に喜んで、藩学者加藤桜老先生の著『桜川私記』その他の貴重な資料を貸し出します。

石倉重継氏はこのとき磯部宮司の桜川に対する愛護の気持ちに感激し、単に事蹟考証にとどまるのではなく、進んで一生を桜川のためになげうとう、との決心を固くしました。

そんな磯部宮司の資料を加えた4度目の草稿にて、遂に事蹟考は完成を見ます。

明治28年5月10日、重継氏は事蹟考出版のため、両親が田畑を売り払って用意してくれたお金と、親族入江菊次郎氏から提供してもらった資金の合計200円を持って上京。

更に上京後、まず名勝地顕揚のためということで、「桜川和歌集」広告3000枚を印刷、各地の歌会や歌人へ配ります。
その際の選者を歌人佐々木信綱博士に委嘱、集まった和歌を「櫻川事蹟考へ掲載すること」として資金にしたのです。

そして、ついに明治28年9月3日、『櫻川事蹟考』は石倉重継氏が編集兼発行人となり、西茨城郡西那珂村大字西飯岡(現桜川市西飯岡)幽調館を発行所として1000部発行されます。

この『櫻川事蹟考』の題字題詠は維新期の元勲元老院議官枢密院議長従二位伯爵東久世通禧、東大古典科教授内務省出仕小中村清矩、東大歴史科教授栗田寛、東大古典科佐々木信綱の三博士、前茨城県知事の高崎親章氏など、錚々たる人物の揮毫が巻頭を飾り、装丁については竹馬の友であり、当時美術学校四年の武山木村信太郎※が筆をふるっています。

※木村武山
岡倉天心の弟子で菱田春草や横山大観、下村観山などと共に日本画の発展に寄与した画家。

◆『櫻川事蹟考』の内容

桜川は歌聖紀貫之が「常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ間
なく寄すらめ」と詠じてから、桜の名所として広く知られ、関西では
吉野、関東では桜川とうわれるほどで、後花園天皇永享10年(1438)櫻川磯部稲村神社宮司磯部佑行氏が鎌倉に上り、時の鎌倉公方足利持氏に「桜児物語」一巻を献じ、これを幽玄能の大家世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」と言われます。

(※社蔵の古文書を元にこう言われてますが、写し書きの際に多少の時代のズレがあったようで、足利義教が世阿弥に作らせたとあり。足利義教は世阿弥を重用しなかったことから、年代的にはもう少し前ではなかったかというのが解釈としては主流)

これを元に作られた『櫻川事蹟考』は

(一)桜川源委考
(一)桜川につきての世人の疑
(一)桜川桜川につきての一奇遇
(一)桜川の沿革
(一)桜川につきての詠歌
(一)桜川八景※1
(一)桜川に付属せる名蹟地
(一)櫻川磯部稲村神社の縁起
(一)桜川のある磯部村考
(一)桜川につきての奇風俗
(一)桜川につきての名産品※2
(一)桜川に関する歴史
(一)付録応募、桜川詠集、佐々木信綱大人撰

といった目次になっています。

内容的には桜川に関する古今集、夫木集、後撰和歌集、名所今歌集、回国雑記、名所千句、歌枕名寄、内藤義泰歌集など桜川にまつわる古歌に関する詳細な考証を交えて論じています。

※1 『桜川八景』
「稲村の落雁」「姥が塚の秋月」「月山寺の晩鐘」「棟嶺の夕照」「桜橋晴嵐」「鏡が池の夜雨」「樺山暮雪」「櫻川の帰帆」

※2 『桜川の名産品』
「盃」(花筏等)「詩箋」(波に花)「櫻木の箸」「扇子」「封筒」「櫻川の硯」(本居宣長の紀行にも登場。石倉翠葉氏は同志と櫻川保勝會を立ち上げ、この硯の収益を櫻川のサクラの保存や和歌を募集し、その冊子の編集代に充てようとしていた)

◆『櫻川事蹟考』発刊に於ける桜川の顕揚事業

石倉重継氏は事蹟考発刊の後も、桜川顕揚のために尽力しました。
その主たる事業を列挙すると…

◆明治29年4月
 「桜川名花」と題した案内文1000枚を印刷して各地の歌会へ配布

◆明治30年3月
 「名勝雑誌」へ桜児物語を執筆

◆明治33年5月
 「茨城月報」へ3日間にわたり桜川の不遇を訴える

◆明治34年4月
 博文館発行「太平洋」へ「桜川」と題し木村武山彩画と共に発表

◆明治39年5月
 日露戦争「戦勝記念桜川誌」の出版を思い立ち、坂巻耕漁、小林永二郎両画伯の彩画をもって、500円を印刷費に充て、全部を当時の地位のある人たちや各新聞社、図書館に配る

◆明治45年4月11日
 史蹟名勝天然記念物協会幹事戸川残花氏が、同協会評議員で理学博士の三好学氏による、侯爵徳川頼倫公(旧和歌山藩主)の内葵文庫の桜の会開催にあたり、『櫻川事蹟考』を推薦

◆明治45年4月18日
 侯爵徳川頼倫公一行が桜川視察を行う。重継氏の友人青木笠雨によると、
 「侯爵徳川頼倫公は三好学博士の講演と戸川残花先生の推賞並みに庵主(重継)の旧著二種を終日細読され、かかる名所を等閑に付す(なおざりにする)べからずと為し、俄に前記二氏を案内し、橘井南葵文庫掌書、家従を従え杖曳杖、同侯の快調たる史蹟名勝天然記念物協会の名を以て保存金若干を櫻川磯部稲村神社へ奉納せられたる旨、戸川残花先生及び神社氏子総代より詳細庵主(重継)のもとへ報告せらる」とあり。



三好学博士が調査に訪れた時の写真(絵はがき)


上の絵はがきのアップ。左より、徳川頼倫侯爵、三好学理学博士、戸川残花氏
(詩人・牧師で晩年は紀州徳川家の南葵文庫の主任)、南葵文庫主任橘井清五郎氏


◆大正13年12月9日
 桜川が「名勝桜川」として内務大臣若槻礼次郎氏から「内務省告示第777号 史蹟名勝天然記念物法第1条」によって指定されるに至った。

これをもって、石倉重継氏の多年にわたる悲願が実を結んだのでした。

※資料『櫻川事蹟考』(茨城県立歴史館蔵)
    『岩瀬町史』(昭和62年3月岩瀬町発行)
    『櫻川真景絵葉書』(櫻川磯部稲村神社社務所発行:同神社蔵)





歌川広重『名所雪月花 小かねいつつみ花盛』

1732(元文2年)八代将軍吉宗の命を受けた川崎平右衛門(武蔵野新田の発展に尽力した)の指揮の下、玉川上水沿いの小金井橋を中心とする東西4kmにわたって吉野山の桜と常陸桜川の桜が交互に植えられたのが始まりと言われる都内有数の桜の名所。

大正13年国指定名勝、平成15年国史跡に指定されている。



絵はがきに描かれた大正期の小金井堤

武蔵野の新田開発時、桜の花に解毒作用があるということや、花見客によって堤が踏み固められるという理由から、玉川上水沿いに植樹されたと言われる。

以後数々の浮き沈みを経験しながらも植え継がれ、国の名勝指定を受ける時には1,471本あったという。



花見客で賑わう列車を描いた風俗画(明治39)

以後も花見の名所として栄えたが、太平洋戦争や五日市街道の拡張などにより痛めつけられ、昭和43年〜53年にかけて小金井市が360本を補植するも、古木は枯れ、若木は育たずという状態に陥っている。

また、これに拍車を掛けるように、玉川上水が上水としての機能を停止してからは管理が行き届かなくなり、ケヤキなどの高木が桜を圧迫している。

現在「名勝!小金井桜に親しむ会」「名勝小金井桜を守る会」などが保存活動にあたっているが、これとは別に小金井公園内にも数多くの桜が植えられ、桜の名所となっている。
公園内の桜は「小金井公園桜守の会」の方達が守り育てている。



現在の小金井桜

大正10年開園の岩手県:北上展勝地公園には、開園の際小金井桜の苗木200本が贈られており、「桜川-小金井-北上」は親、子、孫の縁を持つことになる(2002年「名勝!小金井桜に親しむ会」の主催により、小金井総合体育館で「桜川、北上、小金井三世代交流」が行われた)


北上展勝地の桜

こうした縁から、平成12年には、小金井桜の危機を憂いた北上市が86年ぶりの里帰りとして、北上で育てられた小金井桜の後継樹200本を贈っている。

サクラサク里プロジェクトでは、平成17年11月21日に研修旅行として小金井を訪れ、「小金井桜」と小金井公園にある「桜の園」などを当地の各会の方々の案内のもと見学してきた。

これが縁となり、平成18年3月25日には小金井近郊の桜守団体の上部組織「(財)日本花の会東京多摩支部」が磯部を来訪。
交流会の後、「小金井公園桜守の会」「くにたち桜守」「名勝!小金井桜に親しむ会」による記念植樹が行われた。

その中には玉川上水に150年前(嘉永年間)に補植されたヤマザクラ「嘉永桜」もあり「270年ぶりの里帰り」として多くのマスコミに取り上げられている。

他には玉川上水の「三吉野桜」、小金井公園の「小金井薄紅桜」、くにたち市民のシンボルである「寒桜」「大寒桜」の計5本が磯部桜川公園に植樹された。


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