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特別コース
いわせものがたり もくじ
昭和63年度
 
「五大力堂と池亀村(上)」

 竜神山の東麓、池亀集落にある五大力堂は、元慶二年に岩井の地で殺された平将門の残党藤原玄明らか立てこもったと伝えられ、堂内にある五大力像は、日乗上人の手によって五体の尊像が刻まれ、逆賊追の一大修法を行ったと伝えられる。
 しかし、現在残っている五大像は、それから二百三十余年後の治承二年に彫り直されたものではないかと言われ、胎内の銘文には「奉造立五大力菩薩五躰・・・治承二年○○空天作」と記されていると言われ、治承四年には、都で似仁王の令旨により源頼政が挙兵した宇治の乱があり、相次いで源頼朝、木曽義仲も挙兵、ようやく全盛を極めた平氏一門に陰りが出始めた時代の作であった。
 また、一体の像には「○歌の歌」が記されていたと言われ、芳原修二氏の調査によれば、一夜の恋の契りを切なく歌ったものだそうである。
 この五大力堂は、現在お堂が修復され、道路も細い苔むしたものから広く舗装されたものに変わり、静けさだけが昔のまま残る山寺である。
(○は文字不明)

(昭和63年4月21日発行)

 
「五大力堂と池亀村(下)」

 五大力堂の東にある集落の鎮守香取神社。この神社の東北に谷川が流れ、この近くに藤原玄明の墓の言われ、平親王様とも呼ばれる多宝塔がある。
 そばには玄明の梅と言われる老梅が歴史の重さを伝えている。
 その昔、平安時代の中期、平将門を岩井の地で倒した平貞盛と藤原秀郷は、将門軍でも随一の武将であった藤原玄明を追って筑波・加波を越え、竜神山のふもとにある池亀の地にたどり着いたが、決死の玄明軍を攻めあぐね、法力にすがろうとして作られたのが五大力像である。
 その後、日乗上人による賊徒調伏の大修法が郊を奏したが、篠つく大雨となって玄明軍の陣地を襲い天命を悟った一行は、この一の谷を最期の決戦場として華々しく討ち死にしたと伝えられる。さらに、五大力像の胎内に記されていた「○歌の歌」や玄明合戦の絵馬を見るにつけ、東国の山野に一大旋風を巻き起こした一世の英雄、平将門とその伴類、藤原玄明一行の怨念が偲ばれる。
 それから約二百年後、源頼朝が平貞盛の子孫である清盛追討の旗上げをして、平氏を西海に滅ぼし、鎌倉幕府を開いたことによって東国武人としての将門の念願も果たされたものと思われる。
 
(昭和63年5月20日発行)

 
「中郡 岩瀬村(上)」

 南に桜川、北に大川、この間に台地があり、ここに東西に連なる集落が岩瀬町発祥の地岩瀬村、現在の元岩瀬地区である。
 集落の東にそびえるのが長辺寺山。この裾には、地区の鎮守である今宮神社が祭られている。
 神社は、誉田別命を祭神として、長辺寺山の中腹に集落を一望するように鎮座している。
 この北側には、有名な狐塚古墳があり、発掘された時に鉄剣やガラス玉など多くの出土品があったといわれ、当町が古墳文化の点からも広く県内郷土史家の注目する原因になったところでもある。
 また、この近くには多くの五輪塔があったといわれ、これらの石碑がこの地区に君臨していた豪族との関係は?と考えると、岩瀬城の大きさ等を想像しても興味はつきないものがある。
 長辺寺山頂には、まだ発掘されていないが、埋蔵文化財関係者の注目の的である古墳が眠っているのだ。
 ここから西へ集落の中央に歩を進めると弁天池があり、池の中央に弁天様が祭られている。
 また、辺りには金毘羅様を祭る常夜塔や二十三夜塔、馬頭尊碑等が建っている。
 馬頭尊には、「文久三年邑中」と記されていた。そして道路の西側には、小さなお地蔵様が赤い頭きん姿で祭られている。
 
(昭和63年6月23日発行)

 
「中郡 岩瀬村(中)」

 弁天池の東南には弘法大師を祭る大師堂、その東北には、無量院長千寺という薬師堂が祭られており、この付近を御城と良い、近くの佐藤家の屋号ともなっている。
 薬師堂は、古くは長辺寺山に祭られたと言われ、薬師如来と十二神将は、共に町指定の文化財である。
 境内には、銀杏の古木があり、そのかたわらには小さなお堂があって、中にお地蔵様が安置され、「開祖元禄二年中郡岩瀬村」と記されている。
 その昔、戦国時代この岩瀬の地に岩瀬十兵衛なる武士がいたが、同じ集落に住していた仁平幡摩や大和田主語などと同じ地侍であってみれば、これだけの城跡を遣るのは不思議とも思われるのだが、ここに考えられるのは平城であると言われ、南朝方の中郡の拠点と言われた中郡城の所在地?である。
 中郡城は、当初中郡氏が領有していたが後に安達氏の領有となり、足利氏の代官支配であった南北朝時代、北畠顕時がこれを攻め、南朝方の拠点として足利勢を大いに悩ました城と言われる。

▲薬師堂

(昭和63年7月21日発行)

 
「中郡 岩瀬村(下)」

 集落の北側に、長く続いた空堀の跡が残っていたという岩瀬城。
 この支配者であった中郡氏は、保元の乱に源頼朝の随兵として、中郡経高が活躍した。その後、源頼朝旗揚げの節に中郡経元が源氏に従い、頼朝上落の折りに、随兵として東大寺供奉等に参列したと記録される。
 しかし、その中郡氏も北條氏の代に悪口の罪によって地頭職を除かれ、しばらくは安達泰盛の所領であったが、弘安八年の霜月騒動で安達氏は滅亡。
 中郡氏は地頭職を除かれた後、出雲へ去ったと言われるが、一部は佐竹氏に仕えたらしく、中郡若狭守子孫と伝えられ、中郡を名乗る旧家が久慈郡にあり、県北地方には中郡の姓が多く見られる。
 また、古老の話によると新治村には、岩瀬より移住したと伝えられる岩瀬弾正の一族が現住していると言われる。
 さらに、安達氏は、泰盛の子孫と伝えられ、安達を姓とする旧家が町内に現存している。
 一方、集落西方の地、御領とは国や幕府の直支配のことであり、この地内には古くから天満宮が祭られ、春の天神祭りには着飾ったお針娘たちで、昔は相当なにぎわいであったと伝えられる。
 そして境内には、約三十年前までは、それは見事な山桜の巨樹があって、遠くからも眺められたということである。
 
▲天満宮

(昭和63年8月25日発行)

 
民話「生き返った童子」

 むかし、むかし、常陸の国は中郡(岩瀬地方)に、それは、それは、小さな草づくりのお堂がありました。
 お堂の中には、いつのごろからか、一体の薬師如来様が祭られていました。しかし、余り粗末なお堂なので、村の人からもつい忘れられて、付近は一面、草原になっていました。
 時は文永年間といいますから鎌倉時代、近くの腕白盛りの、それは、それは、本当にかわいらしい童子が急に病気で倒れ、家内中の看病のかいもなく、息を引き取りました。
 両親は、泣く泣く、近くの人に頼んで野辺の草原へ童子を置き、母親は毎日童子に会いに行っては、薬師様に深いお祈りをして帰りました。
 それから幾日か過ぎたある日のこと、どこからともなく美しい鈴の音が近づいたと思うと、薬師様が童子を背負って童子の家へ見えられたではありませんか。
 見ると、童子はニコニコ笑って、「おっかあ。」声と一緒に母親のふところに飛び込んできました。
 気がつくと薬師様の姿はなく、鈴の音が段々と遠のいていったということです。
 この不思議な話に近くの地頭は、薬師様を自分の家へ迎え、立派なお堂を作って敬い、村の人々も熱心に信心したということです。

(昭和63年9月16日発行)

 
「北向き不動尊」

 青柳と犬田の境に位置する猪窪地内に、御嶽山への登山道となっている一本の道「関東ふれあいの道」が、南に延びている。
 この道の両側は、ゆるやかな山で、間に狭い水田が続き、その果てた所に「御嶽森林公園」の案内板と駐車場があり、ここから200メートルほど登ると「不動の滝」がしぶきと供に頭上より落下し、滝の上の岩には石の不動尊が二体、北向きで祭られている。
 これより東、御嶽神社の下、水戸境の山裾にも不動尊が祭られている。この不動尊は、木の鳥居をくぐった木立の中に、北向きに祭られており、青柳地区の人々はこれを北向不動様と呼んで、毎月縁日の二十八日に、同地区の善男善女がこぞってお参りし、地区の安全と家内安全を祈りつつ、境内の清掃を行っているということである。
 ちなみに、不動明王とは、治病安産災難除けの仏神で、背の大火災は、一切の煩悩を焼き尽くす、大悲の相を表すと言われている。

(昭和63年10月27日発行)

 
「御嶽神社」

 不動の滝から階段状に作られている急な坂を登ること約15分余り、標高230メートルの御嶽山神社に着く。
 御嶽山とはその名のとおり、その昔、江戸時代末に木曽の御嶽より祭神を迎え祭ったとされ、農業の神として信仰厚く、地元はもとより、遠方からも信者の参拝が跡を絶つことがなく、多くの先達によって護持されていると言われる。
 神社は西向きに建てられており、柏手の音も四囲の静けさの中に溶け込むように天空にこだまし、さえずる小鳥の声も一段と自然の美しさを引き立てているかのようである。
 ここから、水戸・犬田・上城の尾根伝いに雨引観音に下る遊歩道を「関東ふれあいの道」と言い、家族連れや仲間同士のハイキングコースになっている。
 また、北側には多くの神々が祭られ、霊神の名を刻んだ碑が林立しており、見晴らし台からは岩瀬市街が一望できる。下りに、水行場の道標をまっすぐ行く道が昔からの参道であり、裾の一軒家が天賀谷喜市氏宅で、屋敷内には、上の神社よりも古い時代から御嶽神社を祭った祠がある。
 
(昭和63年11月27日発行)

 
「伊勢参宮 記念の松」

 江戸時代中期より上方見物を兼ねた伊勢神宮が流行。十返舎一九の作「東海道膝栗毛」も「弥次喜多珍道中」が人気を呼び、ますます伊勢神宮が盛んになり、日本全国から人々が詰め掛けた。
 当時はそれを「おかげ参り」と言い、ついには「ええじゃないか音頭」となって民衆が乱舞し、徳川幕府崩壊の原因にさえなったと言われる。
 当時、我が岩瀬からもかなりの人がお参りしたものと思われ、その記念として植えられた松が「伊勢松」と言われ、国道50号近くの青柳・元岩瀬地区に見事な松が、つい近年まで健在であった。
 また、記録としては「伊勢参宮旅日記」として、橋本村(現在の上城)の名主・安達脩作の古文書が残っている。
 それには、天保十四年に伊勢太講という頼母子講を始め、年に三回一分金ずつを納金し、それから七年後の嘉永二年正月七日に出立、同行の人々が伊勢から四国の「金比羅宮」まで足をのばしたことが記されている。
 さらに、伊勢松については、「めでたく帰国につき、春田起して村方水戸両村中のもの手伝い来る。その外青柳村・縁これある人々の手伝いうけて、一日起し田へ伊勢塚を築き、上に一本植えて」と記されている。
 
(昭和63年12月22目発行)

 
「二所神社(西小塙地区)」

 旧国道50号、昔の笠間街道に開けた宿場羽黒下町。現在の西小塙地区、昔の小塙村である。
 この地区に鎮座するのが、羽黒山二所神社。この度、集落の人々の多大なる浄財を集めて、待望の拝殿が新築された。
 この神社は、いつの時代からか、お羽黒山より月山寺に祭られていて焼失したと伝えられる羽黒神社と、八幡宮とを明治六年に合祀、二所神社と改めたといわれる。
 羽黒神社は、伝えによると天慶の乱に平貞盛が平将門と戦った時に、将門軍の勢いが強く、しばらく難を逃れた平貞盛は、お羽黒山上にこもり、朝敵討伐を天地の神々に祈願。
 その神助を得て、遂に将門の軍を破り、その神恩を謝して羽黒神社を祭ったそうである。
 また八幡宮は、日本武尊が東国平定の帰路、この地に軍を休め、しばし自然の美しさに見とれた所といわれ、後年、土地の人々によって祭られ、後に源頼義・義家親子も睦奥安部氏平定の途中、社前にぬかずき勝利を得ることができたと伝えられている。
 
(平成元年1月26日発行)

 
「地蔵堂」と「お羽黒山」

 県指定の文化財「木造狛犬」が安置されている二所神社から東へ500メートル、集落の上地区に火の見やぐらがそびえている。
 この下の狭い参道を進むと、町指定文化財で「北向地蔵」として知られる地蔵堂があり、中には地蔵菩薩が祭られている。
 二所神社修理と一緒に修復されたといわれ、銅ぶきの屋根が太陽にまぶしく輝いていた。
 ここから東へ田の中の道を通って、お羽黒山の石鳥居をくぐり、急な参道をあえぎながら登ることしばらく、羽黒山城といわれる砦跡を巡ると、山頂の羽黒山神社の祠にたどりつく。
 祠は四角な窪地にあり、周囲には自然石を土と一緒に盛り上げた土塁が築かれていた。
 この峯の北側の山頂は、棟峯城跡といわれ、地元の古老は、「馬場跡ではないか・・・。」と語ったが、砦の跡が現存し、古い井戸の跡もあったと伝えられ、遠い昔・・・戦国乱世の時代を偲ばせる。
 
(平成元年2月13日発行)

 
「戦国の小塙村(西小塙)」

 元中四年、小田五郎が小山若犬丸を助けて難台山に兵を挙げると、福原大炊介は、居城である羽黒山棟峯城を拠点に義軍に参加したといわれる。その羽黒山の頂も、今は静かな雄姿を見せて羽黒の街を見下ろしている。
 古戦録によると、天正十二年三月末に戦ったといわれる田野城合戦は、羽石内蔵之介を将とした笠間勢と水谷幡龍を将とした結城勢の争いであり、羽石車の中心は、岩瀬地方の土豪地侍であった。
 この戦いに敗れて、逃れた羽石政秀が門毛城にかくまわれているのを、水谷に告げ口した羽黒城主・今井勘左衛門を怒った岩瀬の土豪集団約三百の兵が、羽黒城を落城させたといわれる。
 また、昭和初期まで上城地区に居住していた谷中家の古文書には、水谷幡龍よりの出陣要請の回章が伝えてあるが、それには羽黒村満川勘左衛門殿と記されている。

▲お羽黒山

(平成元年3月23日発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」
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