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特別コース
いわせものがたり もくじ
昭和62年度
 
「青柳の糸桜」

 水戸線の青柳踏切を東へ約百メートル程歩くと、そこに青柳集落の氏神様である熊野神社がある。
 この熊野神社の境内には、今は見る影もなくうらぶれた本当に哀れな姿の一本の桜の大木がある。
 この古木こそ今は昔、名にし負う青柳の糸桜であり、華やかだったころの見事に満開となりしだれたその姿は、今だ中高年以上の人々の瞼にふるさとの誇りとして熱く焼き付けているのである。
 このしだれ桜は樹齢五百年を越え二代目と言われるが、はるか昔、磯部神社の神主が時の鎌倉公方足利持氏に「花見物語」を献上、室町六代将軍足利義戦が時の能謡曲師、世阿弥元清に謡曲「桜川」を作らせたとも言われ、その中には「なほ青柳の糸桜あり」と記されていると言われる。
 また、笠間藩主牧野越中守も青柳の糸桜を愛でて

 「見渡せば青柳むらや桜川」
 「田舎も春の錦なりけり」

と歌ったと伝えられており、関八州古戦録によればこの集落には戦国の昔、笠間方の谷中孫ハ郎、安達大勝亮と磯部の玉陰橋辺で戦った益子方の武将青柳豊後守、青柳肥後守の子孫と伝えられる天賀谷氏が、集落の大半を占めて熊野神社や御嶽神社を守ってきたものとおもわれるのだ。

(昭和62年4月24日発行)

 
「鏡ヶ池と山ロ郷」

 稲田石切山脈の西、、旧笠間街道沿いにある山口の鏡ヶ池は、桜川の源と言われ、古来よりどんな日照りでも決して水が涸れたことがなく、浮世の竜宮とも言われたと言うが、近年、池の工事をした人の話では、底の岩盤の間から清水がこんこんと湧き出していると言う。
 また、古歌に「みせみせぬ鏡ヶ池のおしどりは、みつから顔をならべぞいる」とあり、その昔、大和武尊がこの水面を鏡替わりに姿を映したことから鏡ヶ池となったとも伝えられている。
 ここから少し西へ下ると間もなく、子安地蔵尊の祠があり、背後の岩石の裂け目から突き出ている一本の山桜がある。これを石割桜と言い、江戸時代来の桜川十二名品の一つに数えられている。
 さらに、ここから西へ下ると北側の山へ伸びる一本の道、この行き止まりに大日堂があり、毎年七月二十一日の縁日には、村中で赤飯祭りをすると言う。
 そして再び笠間街道をゆっくり下ると、間もなく南側に山口集落の鎮守である八幡宮に出る。
 この古い歴史に彩られた山口集落からは、慶応四年 (明治元年)七月、新政府の要請により笠間藩が他領との境に番所を置いた際、郷兵として磯峯三郎、広沢徳左衛門の二名が、大橋番所の警備に当たったと伝えられている。

(昭和62年5月21日発行)

 
「谷中村と天晴れの弓取り」

 谷中の中央を流れる桜川。ここに架かる谷中橋のたもとには、約八十年前に焼失、炎の中より危うく薬師如来像を救い出して再建したという薬師堂があり、江戸中期の碑と思われる観世音塔二十三夜塔や地蔵尊等が安置されている。
 その背後にある谷中山の入り口には、谷中淡路の建立したといわれる馬頭尊があり、中腹には鎮守である諏訪神社、山頂には谷中氏が築いたといわれる砦の深い空堀の跡がある。
 谷中山は昔、茶臼山?と呼ばれていたらしく、関八州古戦録によれば谷中玄蕃加藤大隅争乱の時、益子方富谷の城兵をして飯田(現在の南飯田)の田頭に番所を置き、茶臼山に物見を出して笠間の人数打ち出るときは、その多小を定め・・・とある。
 また、現在東友部に居住する谷中玄蕃の子孫の文書には、谷中、橋本両村は先年マデー村デアリ谷中淡路谷中玄蕃と申ス者谷中橋本二数代居住ス・・・中略・・・天正五年結城春友公数千騎ニテ富谷山長辺寺山二陣取り、侍大将に縫出雲加藤大隅ヲシテ橋本城内へ攻メ入ル、当方ハ安達大膳中原将監玉尾忠右エ門等開キテ立チ並ビ弓矢ニテ防グ、中ニモ谷中淡路ハ弓勢強ク数多ノ結城勢ヲ射討敵ヲ引キ退カス・・・。とあり、後年谷中淡路は、笠間藩主となった永井右近直勝に百石で召し抱えられたといわれる。

(昭和62年6月18日発行)

 
「笠間領の境 飯渕村(上)」

 飯渕集落、西の外れの高台、益子街道沿いに二十三夜塔の碑が二基、観世音の石像が一体、それとこの場所にもう一基の道標があった。
 「従是東笠間領」と刻まれたみかげ石の細長い石柱である。
 この高台は、旗本中根領と笠間藩牧野領との国境であった。
 今、この道標は、集落の中央にある磐所と家号で呼ばれている仁平家の庭内に移されている。
 そして、道標のそばには五輪の塔が二基ある。
 古老の話によると古くから近くの堂の入りというところに建立されていたもので、平将門の墓と呼ばれていたのを、仁平家で庭内に移し祭ったものだそうである。
 その昔、京都の政府に東国人の気骨を見せて関八州を荒れ回った平将門は、長く東国人あこがれの偉人として多くの墓を今に残しており、池亀にある平親皇の墓もその一つである。

(昭和62年7月23日発行)

 
「笠間領西の境 飯渕村(下)」

 仁平家の近く、久原から飯渕への坂を登った旧道路沿いの高台に薬師堂があり、祭日である二月十五目には、集落の女衆が集まってかなりにぎわうといわれる。
 この薬師堂より西南へやや狭くなった道を行けば、集落の鎮守である香取神社がある。
 社殿は自然石の石段を登った高台に、南に面して建立されている。
 徳川四代将軍の時代、万治二年に再建されたといわれており、当時の笠間藩主は、井上河内守であった。
 創建は不明であるが、室町から戦国時代にかけてのものと思われる。
 また、香取神社の近くに家敷があったため香取の屋号で呼ばれている吉井家はこの地方では珍しい曲家である。

(昭和62年8月20日発行)

 
「観音様と坂本村」

 南に大月、北に山口の集落に挟まれた坂本集落。
 その中央を町境の山脈に向かって延びるー本の道、その行き止まりが花立山福聚院観音寺、つまり坂本の観音様であり、子授け子育ての観音として今もなお信仰の厚い寺である。
 まず苔むした石段の前に立ってふり仰ぐと仁王門がはるか頭上に見え、急な石段を八十八段登り詰めると金剛力士像が仏法護持に安置されてある。
 仁王を表したものといわれ、参拝する人々がそのたくましい体力にあやかろうと、紙つぶてを投げつけたりワラジを奉納したりしたといわれる。
 山門をくぐると、歴史の重みを感じさせる本堂があり、その周囲にはうっそうと茂椎の古木があって、厳かな雰囲気を感じさせる。
 また、観音寺の背後に坂本神社があり、大山祗命を始め三神を祭る。
 これらは、坂本集落の人々によって代々大切に護持されており、毎月十七日が縁日であるが今も年に三回の縁日には、村中こぞって観音祭りをするといわれる。

(昭和62年9月18日発行)

 
「一本刀土俵入り」

 昔、中泉村に平八という男がいた。
 子供の頃から力が強く、生まれた所の宇都宮でも草相撲では、常に勝ちっ放しであったという。
 ある時、地方巡業に来た江戸相撲に見いだされ江戸へと旅立ったが、夢破れて流れ流れいつしか中泉村の博徒、友七という親分に見込まれ、娘の婿としてヤクザの世界に足を踏み入れたのだった。
 意地と任侠が売り物のこの世界で、力が強く勇み肌の平八はぐんぐん人気を上げ、次第に親分としての貫禄を身につけていった。
 ある時、真壁で博打のケンカがあり、平八はその仲裁に入ったが、かえって恨みを買い大国玉の専右エ門親分子分十数人で平八ー人のところを待ち伏せ切り付けたが、散々平八独りに切り付けられてしまった。
 このことは、時の笠間藩主・牧野貞長公の耳にも達したということであった。
 また、当時笠間藩では寛政四年から十一年にかけ不作が続き、押込み強盗や盗みが相次ぎ、まるで乱世のごとくなったということである。
 平八はその時、私財をもって新治地方より米麦を買入れして難渋の者の面倒を見たので、藩主より特に名字帯刀を許され、中泉から笠間宿までのもめごと一切、平八が乗り出すとたちまち丸く納まったということであった。
 平八は相撲の土俵入りこそできなかったが、見事一本刀での土俵入りを果たし、名前も榎戸平八郎昌勝と改めたといわれる。

(昭和62年10月22日発行)

 
「歴史の里 西友部村(上)」

 今は昔、日本武尊が東国を平定し懐かしの都に帰る途中、伊勢の国で亡くなられたが、父君であった景行天皇はいとし子日本武尊の平定した地方を巡視すべく、はるばる東国に足を運ばれたと伝えられる。
 そして上総国(千葉県)から常陸国(茨城県)を回られた時、各地に大伴部を置いたといわれ、現在の西友部、東友部も古くは伴部郷と称したと伝えられる。
 また、山田坪の東には石守寺の跡があり、山田坪から枇杷塚坪(上城)にかけて古墳が点在しており、同所の田山純一氏、萩原義照氏らによって「花園古墳群」と名付けられたのだったが、図らずも去る五十八年夏、再び田山純一氏によって偉大な発見がなされた。
 山田坪の岩本宗賢さんが庭を拡張するため、南面の塚を取り壊し、みかげの巨石で造られた石室を取り除いておいたところたまたま田山氏が訪れ、浮かび出ている模様を不思議に思い、町文化財委員の萩原義照氏を通じて県に調査を願ったところ、赤・黒・白の三色を用いた国の重要史跡級の壁画であり、装飾古墳としては、勝田市の虎塚古墳に勝るとも劣らぬ古墳との評価を受けた。
 しかし、現場は風雨にさらされ、色も定かでなくなったということが残念である。

(昭和62年11月26日発行)

 
「歴史の里 西友部村(下)」

 山田地区の外れに延命観世音の大きな碑がある。
 いつの建立か不明であるが相当古い時代に祭られたものらしい。
 かたわらには、日露戦争に地区内から出征従軍した軍馬の記念碑も建立されている。
 この集落の中心部を走る町道のゆるい坂を登った所がますみ団地。
 その北側に台地があり、石段を登ると「大目堂」が祭られている。
 ここでは、毎年旧歴の十月二十八日に「甘酒祭り」を行っており、六軒の当番が各家々から白米を一升ずつ集めるなど色々な準備をし、「でいにち様」の甘酒祭りが盛大に催される。
 それは、この地区が神社を持たないので、大日堂が地区の氏神の代わりをしているのかも知れない。
 この大日堂は、以前に移されたものらしく、そこからは「井上河内守室」と刻まれた石が掘り出されたことがあったと言われ、古老の言い伝えによると、江戸時代初期の笠間藩主・井上河内守の奥方が寄進されたものではないか、ということである。
 大日堂から南に行くと三夜原。旧柿岡街道沿に「二十三夜待供養塔」の碑が建っている。ここを東に下ると「ますみが池」にたどり着く。
 この地区には、稲田の西念寺檀家による「西友部雅楽会」が約八十年前から現在に至るも続いている。
 
〈ますみが池〉
 
(昭和62年12月24日発行)

 
「歴史の里 東友部村(上)」

 昨年、藤原鎌足の墓が奈良藤原京近くの古墳で発見され、このことは、世紀の大発見と報じられた。
 大化の改新の立て役者であり、それから数百年もの間日本の政治を動かした藤原氏。この先祖である鎌足公の座像が、東友部の旧家、萩原家の床の間に安置されている。
 萩原家は、藤原友実の子孫と言われ、この座像はかつて石守寺内勅使御影堂に祭られていた鎌足公・友実公の桧の座像である。
 伝えによれば、藤原友実が下向の折、鎌足公の座像を大切に抱いて東下りをしたという。
 この萩原家の南隣りが宮山家、やはり旧家である。ここの庭に石守寺本尊と言われる薬師如来を祭ったお堂が建てられている。
 台座三十厘、座高四十八厘の桧作りで、漆の上に金箔が塗られやさしくほほえんでいる座像で、両側には十二神将を従えている。
 祭りは、旧の六月七日で、家人によって御開帳されるという。
 また、この薬師如来像と鎌足公の座像は、共に町指定の文化財であり、明治初年の廃仏希釈の嵐に巻かれ石守寺も廃寺になったが、その際、旧家である両家に移されたものと言われる。

(昭和63年1月21日発行)

 
「歴史の里 東友部村(下)」

 羽黒駅前地区には、同地区の鎮守である香取神社が祭られている。
 香取神社は神亀元年、奈良時代、聖武天皇の時に香取神社(千葉県)の護神霊を迎え祭ったといわれ、祭神は経津主命と伝えられる。
 その後、全国に悪病が流行して困難を極めた時、垣武天皇勅願所であった石守寺へ悪病退散祈とうのために、中郡荘司藤原友実を使わしたところ、さすがの病魔もようやく治まったという。
 この香取神社から東へ約三百メートル行った辺りを弁天という。
 近くに弁財天を祭った祠があり、境内には稲荷社や聖徳太子碑と並び昭和十年に建立された馬頭尊碑が祭られている。
 当時、荷馬車を業とした組合員は東部地区だけで、七十名に達したと伝えられる。
 弁天から南へ東踏切を越えたところに、月山寺中興の祖といわれた恵賢上人の生家、飯田家がある。
 その昔、飯田家では中々子宝に恵まれず、二十六夜様に祈願して生まれた男の子が後に橋本村月山寺に弟子入り、その後、関ケ原合戦で東軍に味方して手柄を立て、その功績によって日陰の橋本村より現在の拝領地へ引き移ったと言われる。
 伝えによれば恵賢上人は、文武画道の達人で、家来や弟子僧等も数多かったと言われる。

▲香取神社

(昭和63年2月18日発行)

 
「ダイダラ坊の伝説残る平沢村」

 竜神山の山裾に抱かれた平沢集落、この集落の入口、三差路を少し北に歩くと梨園に囲まれるように祭られているのが下の竜神様で、八大竜王を祭るといわれ、その碑が石の鳥居と共に建っている。
 また、集落中央の三山台には村の鎮守・香取神社がある。平沢神社とも呼ばれ、祭神は天照皇太神経津主命である。
 この神社から山道を高峯に登る途中に、子安石とダイダラ坊という巨石がある。
 昔、それはそれはとても大きな男がいて、「ダイダラ坊」と呼ばれていた。
 あるとき、北の海辺から南の海辺へ向かう途中、この平沢の山で一休み、そのときの足跡がこの巨石に残ったといわれる。
 ダイダラ坊の伝説は、関東各地に広く残っており、海岸から遠く離れた陸地に残る貝塚などから、古代のスーパーマンではなかったかと思われる。
 一方、子安石は、子授け安産の信仰からきている女体信仰の対象物なのであったろう。
 さらに、ここから頂上に向かうと、石の祠が上の竜神様として敬われている。
 昔は雨ごい信仰で信心され、四月八日の総登りには、村中こぞってお参りしたといわれる。
 事実、この峯で湧いた黒雲は、物すごい雷雲となって隣の雨巻山に広がり、やがて大粒の雨を稲妻と共に岩瀬の盆地に降らせるのであった。
 
(昭和63年3月17日発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」 

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