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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成4年度
 
「強力・清どん」

 昔、松田村に「清どん」という強力がおりました。
 この清どんが村山の「塔の峯」からも燃本を背負ってくる姿は、まるで小山が動いているように見え、燃木に押された近くの立ち木は、しばらく元にもどらなかったそうです。
 さて次は、田植えグミの熟れた初夏のころのお話です。
 「板敷峠」の立ち木につながれて、草を食べている馬を見た通りかがりの百姓衆が、「ハテナ?この馬っ子は清どんとこの馬のようだが、清どんはどこだんべ」とキョロキョロしていると、「おおい、ここだ!」と、空の方から声がします。
 よく見ると、米俵を二俵くくりつけて背負子を背負ったまま、木に登ってグミを食べている、清どんの姿があったのです。
 たまげた村衆が、「米俵ぐらい降ろせば楽だんべ」と言うと、「なあに、米俵なんか目方のうちに入らねいわ」と言いながら木から降り、側にあった荷鞍をぐいっと持ち上げて馬の背に載せました。
 それを見た村の衆は、またびっくり。荷鞍には、米俵が二俵くくりつけられたままだったのです。
 あっけにとられた村の衆をしり目に、馬に二俵、自分も二俵背負い「石岡市場」へと清どんは足音も軽く、米売りに姿が見えなくなったということです。

(平成4年4月14日発行)

 
「曽根」は「尾根」か?

 松田の東、入郷地区の入り口にあたるのが曽根集落である。
 集落の西、柿岡街道の南側の路傍にある「庚申」の大きな碑が集落の入り口を示すかのように通行の人の目にふれる。
 この碑の裏側には万延元年(西暦1860年)と刻まれているが、現在も庚申講が毎月続けられているということである。
 ここから街道のゆるやかな坂を進むと、北側に集落の鎮守である鹿島神社があり、神明・稲荷・天満の三社が祭られている。
 この神社から加波山麓へと続く丘陵を「ひがし台」と呼び、曽根古墳群としても知られるように、昔は多くの古墳が存在していた大地である。
 大化の改新の時代には「大苑郷」といわれ、それが曽根の名前の由来であると伝えられている。
 一方、この由来について地区の古老が語るには、この大地を指して「尾根」と呼ばれたのがいつしか「曽根」に転化したということである。また「ひがし台」にあった小古墳は、「古墳時代後期の共同体の族長的支配者の墓地であったのではないか」と語るのであった。

(平成4年5月18日発行)

 
「曽根観音堂境内」

 柿岡街道曽根集落の峠、その南側高台に、集落墓地に囲まれるかのように一宇のお堂がある。
 昔の記録によれば、ここには天台宗、石守寺の末寺として玉泉院があったと伝えられている。
 一刀彫りの馬頭観音や十一面観音が祀られているのを見れば、確かに昔はここにお寺があったとうなづける。
 不思議な話がある。このお堂には古くから平将門の木像が祀られている。近年になって盗まれたのか、暫くの間、木像が行方不明になるという事件があったが、いつの間にか返されていた。
 近くの古老の語るには、やはり平将門の崇りを恐れて、戻さざるを得なかったのであろう、という事であった。
 平将門といえば、岩瀬以南の県南一帯が戦場となり、大和村本木での源護や叔父の平国香との合戦はよく知られている。
 平将門亡きあと、何者かがその冥福を祈って木像を曽根の地に祀ったのかもしれない。
 この境内には江戸時代に建てられた碑がいくつもあり、それらに混じって、二つの供養塔がある。
 この供養塔について古老が語る処によれば、南北朝時代、南朝の旗を挙げた小山若犬丸と小田五郎が、ここに逃れて殺されたと伝えられ、それらの霊を安んぜる碑ではないか、という事である。
 
(平成4年6月19日発行)

 
「角力(すもう)の猿田」

 石岡街道、曽根地区と猿田地区の境に一本の古木がそびえ、その根元に石の六地蔵尊と「是ヨリ加波山五十丁」と記された道標が置かれている。
 その側には、猿田集落へ向う小道があるが、現在は土地改良により、その東側に新しく広い道路ができて、加波山麓の集落に直線に伸びている。
 この道を進むと、西側に猿田集落の墓地があり、その入り口には山下坪の塚にあったといわれる亀の子石が無造作に置かれている。
 この亀の形をした珍しい石は昔の墓石ではないかということである。
 墓地の奥には地蔵堂があり、お堂の前に、猿田集落が生んだ力士、入間川治太夫の大きな石碑がある。
 入間川は小池直吉といい、子供の頃から群を披く大男で、明治三十八年五月に入幕して、幕内の前頭三枚目まで出世したそうである。
 引退後は「アリムラ」の年寄名で後進の指導をしていたが、四十歳代の若さで他界し、その墓は両国の回向院にもあるそうである。
 昔は猿田といえば草角力が盛んで、集落の原台地には土俵がつくられていたそうで、入間川の他にも、加藤家、平田家からも東京角力に入幕した入がいたということである。
 
(平成4年7月16日発行)

 
「猿田集落の坂道を登る」

 猿田集落には三所神社があり、これは明治六年に、天子崎明神、赤城明神、熊野明神の三社が合祀されたといわれている。
 このうち天子崎明神は承久元年(1219年)に笠間城主の笠間時朝が佐白山から移して、猿田彦命を祭神として祀ったと伝えられている。
 この三所神社境内に大きな碑が建っているが、これは地区の平田家から明治二十七年に日清戦争に出征し、台湾での戦闘で戦死した人の殉難碑である。
 神社の南側にある現在の猿田公民館の敷地は、昭和初期には猿田青年館があったといわれている。
 当時、植田には進取の気象に富む青年が多く、千葉の先進地から、みつ葉栽培の技術を習得して、植田の大地で栽培し、家々を流れる谷川で調整して出荷し、「猿田糸みつ葉」は東京の神田市場でも最高の人気を博していた。
 しかし、昭和四十年代の高度成長で勤め人が多くなり、今ではみつ葉作りも昔語りになったのである。
 猿田集落西側の山裾には、月山寺下寺の法善院跡があり、それは慶長七年に永海によって開山されたと伝えられている。また、集落南の不動様では、二間四面のお堂に不動明王が祀られ、毎月二十八日の祭りには、現在でも地区の老人たちがお参りを欠かさないといわれているのだ。

(平成4年8月25日発行)

 
「猿田村、飯沼家 大黒柱異聞」

 二百五十年前の延享四年、笠間藩への村差出帖によると、猿田村の家数は四十九戸とあり、現在六十三戸であるから、二百五十年の間に、わずか十四戸しか増えていないことになる。
 しかし教育熱心であった入郷地区には、早くも明治七年には猿田小学校が開校、東那珂第一小学校と呼ばれた。
 江戸時代に名主格であったと言われる猿田集落の飯沼家には、現在もある家の柱にまつわる面白い話が残っている。
 江戸時代の末、飯沼家は橋本村(上城)のやはり名主格であった安達家と近い親戚であった。
 両家とも家を新築することになり、谷貝村(真壁町)に欅の巨木を求め、両家の人足が同じ日に担いできたのだが、三里からの道程を歩いて安達家に来た時には、日もとっぷりと暮れてしまった。
 飯沼家の人足たちは、途中、安達家でご馳走になり。そこで考えた。
 −これから一里もある猿田までこの太い欅を拒いでゆくのかと思うと、うんざりしてしまう。どうせ両家は親戚なのだから−。
 飯沼家の人足たちは自分たちが担いできた大い欅の木と安達家の紬い欅の木をすり替えて、担いで帰った。
 そして現在に至るも、安達家の大黒柱は太くて短く、飯沼家の大黒柱は細くて天井まで長いということである。
 
(平成4年10月27日発行)

 
「木植集落 百観音から薬師堂へ」

 加波山が北東に位置し、集落の中央を筑輪川が流れ、この川はやがて谷中地区で桜川に合流する。桜川源流の村ともいえるのが木植集落である。
 戦国時代、旧中原家の先祖の中原将監が活躍したと伝えられ、集落の古老によると、団子山と呼ばれる小高い山が木所城ではないかと言われているが、砦らしい遺跡は現存していない。
 記録によると、弘化三年(1846)笠間領内人別調べでは、木植の戸数二十六と伝えられているが、現在は五十五を数えている。
 猿田小学校から東に今泉に向かう道の途中、集落の中心である山裾へと向かうT字路がある堂の下には、万延二年(1861)と記された百観音が祀られ、その北側の基地の土手には、多くの馬頭観音の碑が並んでいる。
 このT宇路を南に進むと道端にごろりと横になっている大きな石が、「加波山二十七丁」の道標の碑で、「左あたご右加波山」と記されているといわれ、基盤整備の折に動かされてそのままになっているのだと古老は語る。
 この道を山麓へと進むと、東に「御蔵台」と呼ばれる台地に熊野神社があり、熊野神社の南に見える丸い山が団子山、そこから西に行った古い加波山道に薬師堂があり、二十三夜尊の碑がぐるりと境内を囲んでいるのだ。

(平成4年11月24日発行)

 
「親鸞と弁円」

 木植集落、吾国山麓に連なる尾根は板敷峠といい、木植地区の山裾も、八郷町の大増側と同じく、板敷という地名である。
 昔、木植の板敷に小さな草堂があり、新治郡の東郡であった稲田に草庵を結んで浄土真宗の布教に専念していた親鸞が、しばしばこの草堂に立ち寄り、休息したと伝えられている。
 この頃、常陸国には、加波山を拠点として、呪術と修法によって里人の信仰を集めていた修験者に、弁円という山伏がいた。
 弁円は当時の国司、佐竹秀義から重く用いられていた。
 人々が次第に親鸞の説く念仏往生の教えに傾くのを知り、大いにその法力を怖れた弁円は修法によって親鸞殺害を計った。
 だが、親鸞には何の効き目もなく、やむなく親鸞がよく通う板敷山に弟子ら三十名余りとともに親鸞を待ち伏せて狙った。
 峯に待てば親鸞は麓に、麓に待てば峯をで果たせず、弁円一行はとうとう稲田の西念寺に夜襲をかけたのだった。
 西念寺に踏み込んだ弁円に対して、親鸞はいつもと変わらぬ温かさで迎え入れ、「仏法は人を救うもの。決して人を支配したり害をなすものではありません」と諭した。
 この親鸞の背に後光を見た思いの弁円は、その場にひざまづいて親鸞の弟子となった。
 その後、弁円は念仏僧として一寺を建立したということである。
 
(平成5年1月18日発行)

 
「西念寺と宮崎の間」

 笠間藩地方も天明以来の凶作と商業資本による農村収奪や厳しい年貢取り立てで、豊かな耕地も年々原野と化し、家屋敷はあれど住む人なく荒れるに任せていた寛政四年(1792年)。
 笠間藩主となった牧野貞喜は、当時の藩が抱えていた借金返済の為、財政の立て直しと農村の復興を図った。
 まず家中俸給の削減、倹約の徹底、そして浄土真宗稲田西念寺住職良水師による北陸農民の入百姓であった。
 もともと北陸地方は、蓮如上人以来一向門徒が多く、性格勤勉であるが二男三男の働く土地が少ない事情にあった。
 そこで良水は、すでに加賀(石川県)から移民して土着していた木植村の長幼と平沢村の勝右工門を加賀へ遣わして浄土真宗門徒の笠間領への移住を説得させると共に、自らも役僧如海と共に何回となく北国回りを重ねたのであった。
 しかし遠い常陸まではと、二の足を踏んでいた人々も、笠間藩の示した条件や、良水、長幼、勝右工門らの熱意に動かされ、次第に移民を希望する人々が増えていった。
 そして、是ら多くの人々は往来手形をもたぬ欠村者が多かっため西念寺を檀家として各村々へ入職させ、西念寺より各村名主へ差出申し送り状が出されたのだった。
 このように北陸移民は順調に進んだが、このかげには木植村宮崎長幼など、私財借金までしてあまたの移民百姓の世話をした功労があったからだ。
 西念寺は、長幼に「宮崎の間」という控えの一室を与え筆頭世話人としてねぎらったということである。
 
(平成5年2月23日発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」


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