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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成8年度
 
「新橋のある鍬田集落」

 鍬田集落は、東に西新田、西に富岡、南は犬田から大和村青木に境を接している集落である。
 集落の中を桜川が流れ、大泉地区から流れる泉川と合流して大和村へと流れ、果ては霞ケ浦ヘと注ぐ。
 しかし、この集落を通じる古い結城街道には、昔から桜川に本橋が架かり、その橋は大雨の度に流失してしまい、そのたびに新しく架け替えられたのでいつも新しい橋であったからか?この橋は昭和の初めに永久橋になるその前から「新橋」と呼ばれていて、鍬田の地名よりも新橋の方がわかりやすかったと言われる。
 江戸時代・弘化三年の笠間領内人別調べによれば、鍬田村は、戸数二十戸、人口百十八入と書き記されているが、現在は県西総合病院、笠間警察所岩瀬地区交番など町の重要施設があり、旧五十号国道まで家並みが続き、その中央の広い敷地の中に岩瀬小学校が建っている。
 この小学校は明治八年に犬田法蔵院として開校したのがその歴史の始まりと云われ、明治二十五年には西那珂第三尋常小学校として岩瀬に新校舎を設立、そして昭和十四年には現在地に新校舎を建て、岩瀬第二国民学校と改称されたのが、現在の岩瀬小学校と云われている。
 この小学校の西に鎮座する神社が経津主命を祀る鍬田神社で、鍬田町営住宅の方から鳥居をくぐると、境内には昭和天皇御即位記念の碑、社殿東には古墳らしい塚に小さな祠がある。
 
(平成8年4月発行)

 
「新橋から青木堰を眺める」

 岩瀬小学校から西へ歩くと、鍬田地内の国道50号から大和村の本木を経て真壁方面へと通じる県道筑波益子線が、水戸線の上を通って南へ伸びている。
 この道路は、犬田地内の渋滞を和らげるために開通した待望のバイパスである。
 これから先、まもなく南へ析れる道路があるが、昔からの青木集落への道で羽田方面に通じている。
 この三叉路から西へ約百メートル先に行ったところに橋があり、欄干の隅に「しんばし」と記してある。土地の人の話では、昔は、現在より北側の低い場所に本橋が架かり、桜川増水の度に水中に没しては幾度となく流されていたため、なぜか昔から新橋と云われていたそうだ。
 この橋から桜川の下流を見ると、苔むしたコンクリートの水門が川の左岸に仁王門のように堰き止めている。
 これが「青木堰」である。この堰は大正七年に作り直された二宮金次郎ゆかりの堰で、現在も現役として、青木集落や新橋の谷原地区の田を潤している。
 金治郎が手がけた堰は、この下方にあり、石やコンクリートの残骸が今も残り、川辺に立ってこの風情を眺めると、二宮金次郎指導の下、一丸となって行われた治水事業の苦労を偲び、偉大な尊徳事跡がまざまざと頭を駈けめぐる。

(平成8年6月発行)

 
「ニ宮金次郎の足跡」

 夜明け前の岩瀬の道を、早足に青木村へ通う男がいた。
 少年時代、薪を背負いながらも本を読み学んだ勤勉家として、日本中の小学校にその像があった二宮金治郎その人であった。
 その頃の金治郎は、文政から天保にかけて二十年もの間、現在の二宮町の桜町陣屋に住居し、小田原支家宇津氏の荒廃した領地の復興を成し遂げたその名声は、遠くの人々にまで知られるようになった。
 この頃の青木村は幕領から旗本領となったが、打ち続く天候不順で逃げ出す人々が続出。
 それに、堰がこわれても幕府代官時代のように修理も出来ず「家ありや芒の中の夕けぶり」と旅憎が詠んだほどの荒れ村であった。
 このような村の復興を願いでた名主、館野勘右衛門らの再々度の陳情に金次郎が立ち上がったのは天保四年であった。
 それから金次郎は集落の社寺やお堂、そして民家の屋根を私財をもって修理させ、桜川に川幅一杯の茅葺き屋根の家を造り沈めて堰を築いたというが、この堰を遣るには上流集落の鍬田村や岩瀬の桜川の水の流れを歩いて調べた事とおもわれるが、この青木堰は大正五年の台風で流失したが翌々年に完成した。
 現在、堰の下流約五十メートルの堤塘敷に二宮堰記念碑があり、そこから東の踏切の南に報徳碑が建てられ二宮様と伝えられている。
 
(平成8年7月発行)

 
「乱闘 新橋事件」

 明治二十二年に旧帝国憲法が施行され、翌年の七月十一日に第一回の衆議院選挙が行われた。
 第三区は定員一名で、西茨城郡と真壁郡が同じ選挙区になり、つまり現在の小選挙区制で、岩瀬町からも、犬田の仙波兵庫が立候補したが惜しくも落選、当選したのは、下妻町の飯村丈三郎であった。
 第二回の総選挙は、明治二十五年二月で、このときは笠間町箱田の木村信義(画家・木村武山の父)が立候補し、与党の自由党から二名・野党の改進党の飯村丈三郎が争い、小差で飯村代議士が勝利した。
 飯村派の幹部であった西飯岡の鈴木某と、青柳の青木某が岩瀬駅前の旅館戌亥屋に集まって来町する筈の飯村代議士歓迎式の準備をしていたところ、木村派の来栖某・井沢某らが大和旅館に集合、飯村代議士反対の気勢を上げ運動員の一部は、刀や仕込み杖を持ち、戌亥屋を取り囲み「飯村をやっつけろー」などと騒いでいた。
 そのころ、飯村派の運動員百名余りが鍬田地内を行進、代議士歓迎の気勢を上げていたところへ、木村派運動員一行が駆け付け睨み合いとなり、双方が武器を持っていたため、橋近くの竹やぶからの一発の銃声で大乱闘となる。
 この争乱で多くのけが人が出たが、まもなく駆けつけた警察官によって騒ぎは静められたのだった。
 
(平成8年8月発行)

 
「犬田境地区と孟蘭盆の粽」

 大和村の本木地区に近い犬田の境地区に、越後から移民した農民の末裔が先祖の地から受け継いだ伝統を今もしっかりと守っている。
 それは、お盆に粽(ちまき)を作って先祖の霊に捧げる習慣で、米の粉で練った餅に、あんを入れてクマ笹の葉で包み、ワラでしっかりと巻いて作った粽を十三日に作り、お迎えした仏前にお供えしてから家族でいただくのが、お東・お西に問わず浄土真宗の家三十戸余りが、今も忠実に守っているという話である。
 私の妻の従妹の矢川さんも、鉾田から嫁いできた当初は、バラの葉餅ならぬ粽作りは、節句とお盆を問違えたのかと不思議だったが、今はこの伝統を絶やさぬよう仏さまの供養につとめたと話していた。
 水戸黄門で有名な助さんのモデルといわれる佐々木助三郎が、徳川光圀の命を受け「大日本史」の資料を集めに越後を旅した折、土産に粽を持ち帰り光圀に献上したところ、その美味に喜んだ光圀が、西山荘近くの常陸太田地区に粽作りを広めさせたといわれている。
 現在も、新潟県蒲原地方や魚沼地方に伝わる孟蘭盆の伝統食の粽が、遥か遠い犬田集落で、二百年もの間絶えることなく浄土真宗檀家によって、お盆行事として生かされている事は、本当に珍しいことである。
 
(平成8年9月発行)

 
「鎌倉街道と足利橋」

 新橋から青木へ向かう道の鍬田と青木の境に、今も足利橋といわれている狭い橋がある。
 その橋から南東へ犬田西山へ通じる道路が鎌倉街道で「いざ鎌倉」という際に坂戸城主が鎌倉に馳せ参じた道ではないか?と思われるのだ。
 治承四年平家追討の兵を挙げた源頼朝が、鎌倉を本拠として平家を亡ぼし征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、源氏三代の後は北条氏が執権として治政に当たっていたが、北条高時が元弘三年後醍醐天皇の建武の中興で亡んだ後も、足利尊氏が京都室町に幕府を開きながら鎌倉にも関東公方として将軍職を置いたので、足利時代にも関東武士が参集した道が「鎌倉道」として今に伝わり、この地に足利橋としてその名が残ったものと思われる。
 九月初句、犬田区長高橋昭氏から犬田地内鎌倉道の町による道路工事に道路傍から古墳らしいものを発見したとの通報があり、町の文化財保護審議会会長で茨城県では埋蔵文化財調査の権威者である萩原義照氏が調べたところ、大化の改新の頃の古墳とわかり現状保存されることになった。
 また、高橋さんの話によれば、昔、高橋家の山林から出土したと思われる曲玉六十二個があったそうだが、上野の博物館に寄贈したという話であった。

(平成8年10月発行)

 
「富岡集落を歩く」

 富岡地区は、旧西那珂村のほぼ中央に位置し、集落の南には、富岡城砦が築かれていた竜迎山、北は、久原近くに二所神社が祀られている。
 今から約百五十年前の弘化三年における笠間藩人別調べによると、富岡は戸数十五戸、人口八十八人、馬十三頭と記されており比較的小さな集落であった。
 しかし、明治十一年には、戸長役場が置かれるなどして、酉新田に西那珂村役場が置かれるまでの十年余りは、政治的に富岡は西那珂地区の中心をなしていた時代もあったようである。
 現在、集落の北には、西中があり、磯部の東中と共に岩瀬の中等教育の実を挙げているが、その中学校手前、山王池からの掘割跡には、寛政八年建立の六十六部供養塔と天保十二年と安政五年二建立された、二十三夜供養塔がある。
 掘割の道を曲がりながら北ヘ進むと広い社にたどり着く、そこが二所神社で、境内は杉や樫などの大木がうっそうと茂り昼間でも薄暗い。最初の鳥居をくぐって五十米程歩くと二番目の鳥居で、それから一段高いところに三番目の鳥居がある。
 庭には二対の灯寵と天保六年と記された御盥があり、拝殿正面には二所神社の板額が掛けられている。
 
(平成8年11月発行)

 
「飯田八左衛門の義憤」

 富岡集落の竜迎山北側に、大きな石門のある広い屋敷が「庄屋」と呼ばれている飯田静雄氏の家で、先祖は遥か昔に都(京都)から下向したと伝えられている。
 竜迎山は、桧の林にモウソウ竹と雑木がまばらに生えている小さい山で、頂き付近に天王様を安置しているお堂、そして空濠の上の山頂には八幡社の祠が祀られて、丘全体が戦国期の砦跡になっている。
 戦国時代は天正年間、笠間方の田野城主・羽石内蔵之介が、金敷城(大和村)を攻め滅ぼしたのを激怒した結城晴朝は、下館城の水谷勝俊に田野城攻めを命じ内蔵之介を討ったが、長男政秀は三重の壕を馬で飛び越え、門毛城の阿保遠江守の所へ逃れたのを、羽黒城の今井勘左衛門が水谷に告げ口したため、門毛城は水谷に襲われた。
 平沢五郎という勇士に羽石政秀が討たれたのを悲しんだ、羽石の武将で富岡砦の飯田八左衛門や岩瀬館の岩瀬十兵衛等が、中郡の兵を集めて羽黒の今井勘左衛門の館を攻め落とした。
 結城方からは片見伊賀守晴信を将として、羽黒の今井を助けるため三百の軍を率いて、中郡攻略のため上野原にきたところで飯田・岩瀬等の連合軍と対戦、片見の軍は大勝して晴信は橋本山に入城して中郡の支配者になったという話である。

(平成8年12月発行)

 
「富岡砦の戦」

 国道50号からは富岡集落を眺めると、竜迎山は小高い杜でいかにも歴史を感じさせる丘である。
 戦国の昔、京都では天下布武を旗印に日本統一を目指していた織田信長が、天正十年に明智光秀に叛かれ本能寺で自決、天王山で明智を討った羽柴秀吉ヘと天下は移りつつあったが、関東の地では小田原の北條氏や常陸太田の佐竹を始めとして大小の豪族がいまだに群雄割拠の時代であった。
 足利公方の威も地に落ちた将軍義晴の頃の大永二年に、谷中大学将国が橋本の吉所城を八百石で拝領してから約六十年、谷中氏が城主であったが、その頃、結城軍の大将片見伊賀守晴信の吉所城着城に際して臣従した、谷中月山坊高広は、片見の命を享けて手勢僅かに三十三名の部下と共に富岡砦を守備していた。
 天正十三年、笠間時広と福原朝広の連合軍六百名余りで、片見晴信の備える橋本の城を取り囲み、福原の軍は富岡砦の谷中軍を攻めたので、谷中月山坊は福原軍を追い返すこと数度に及んだが、己も数か所の手疵を受けながら退却する折に討死したということであるが、まもなく下館の水谷幡竜が片見を助けるべく橋本に向かったので、笠間福原の軍は囲みを解いて引き上げたのだった。

(平成9年2月発行)

 
「坂戸(門)郷」

 大排水とも言われる泉川の西の西飯岡集落の北西部に城山が聳え、中腹には筑波学園ゴルフ倶楽部の芝生が広がり、その上の城跡山頂には近年に建立された御堂内に一体の佛像が祀られている。
 戦国の昔は、宇都宮氏の配下であった芳賀氏の一族である小宅三右門高国が応永三年に坂戸山に城を築き、約二百年後の慶長二年に宇都富国綱が所領高いつわりの罪と浅野長重の養子受入れを拒否した罪が原因で、源義朝に仕えて以来の名家も、天下人太閤秀吉の命で没収され、時を同じくして秀吉は、宇都宮配下の多くの安城を廃城にし、その時の坂戸城主小宅高春は、それから徳川の重臣である鳥居元忠に仕えて、関ケ原の前哨戦と言われる伏見城の戦いでは、鳥居元忠と共に奮戦して石田三成の大軍を敵にして城を枕に討死したと伝えられ、その子孫は後に水戸徳川家に供え、戦前には水戸市長の要職に就いた人もいると伝えられている。
 「新編常陸国誌」には、「坂戸按ズルニ茨城郡飯岡村是ナリ此地ニ小宅氏ノ墟アリ是坂戸山ト云フ今ノ茨城郡飯岡村・本郷・中泉・下泉・上野・堤上・大泉・飯渕・門毛及び、真壁郡小栗蓬田八千四百余石ノ地古ノ坂門郷ナリ……」とあり、その中心が西飯岡集落で、現在も坂戸の方が地名として良く知られている。
 
(平成9年3月発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」


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