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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成9年度
 
「坂戸城興亡」

 下野の氏家城を守っていた小宅高清の子高国が宇都宮氏の属将として坂戸城を築き、鎌倉公方に叛いた小栗判官満重の小栗城を足利持氏に従って攻め落城させ、小宅氏は小栗城も併せ持つようになったと云われている。
 持氏は永享の乱で上杉憲実に殺され、それから結城合戦で殺された安王春王の弟、足利成氏が古河公方となり京都の足利将軍に叛き関東管領上杉憲実と争い、成氏に従った小宅高田は武蔵国で討死、その子景時は小栗城へと移り、常に宇都宮氏の戦陣として、その頃北関東へも勢力を伸ばしてきた北条氏康の軍と戦い武名を挙げたと伝えられている。
 そして天文十八年の九月、古河公方足利晴氏の要請を受けた宇都宮尚綱とともに下野は喜連川に布陣して那須高貴の軍と対持したが、宇都宮尚綱が那須方の弓矢を受けて戦死したため宇都宮の大軍は総崩れとなり、小宅尚時も小栗城に逃れたが、宇都宮の敗北を知った結城氏に小栗城は奪われ、その時に坂戸城も小田政治に支配されたらしく、天文年間に期されたと云われる小田家臣の資料に、坂戸城主信田掃部介が誌されている。
 その後小宅尚時は、上杉謙信関東出兵に際して小栗城を回復、永禄七年、上杉謙信の小田北條攻めに応じて坂戸城主信田掃部介を攻め、再び坂戸城主になったということである。

(平成9年4月発行)

 
「坂戸小学校 蒲野姓伝説」

 坂戸から小栗へと往還する道の南側に坂戸小学校がある。
 この小学校正門東側に創立百周年の記念碑があり、昭和四十八年四月二十一日建立と記され、大きな字で横に敬愛、その下に「おおちちのちちのきづきし百年のたしかなる学び受けつぎてゆく」の歌がきざまれています。
 この坂戸小学校は、西飯岡集落など九集落が小学校設立を決議して、飯岡地区の鈴木信一郎宅を校舎にして、明治六年に昇竜小学校として開校。
 明くる七年に元向寺を校舎にしたが、生徒が増えたので小幡地区にも仮校舎を作ったものの明治十一年に現在地に移り、明治二十五年に西那珂尋常小学校から高等小学校、そして現在の坂戸小学校へと移ったのだ。
 実に学校発祥の地は集落の旧家、鈴木家なのであった。
 小学校近くに蒲野姓のお宅があるが、今から八百年も昔、蒲冠者といわれた源範頼が、兄頼朝の怒りを受け北へと逃れる途中、食糧に困った範頼一行に蒲野家の先祖が食糧を献じたので、その礼にと範頼から蒲野の姓を与えられたと伝えられてきたという話であった。
 この蒲冠者こと源範頼は、頼朝が源氏再興の兵挙げるやいなや馳せ参じて、弟義経とともに平氏を追討し鎌倉に帰さんしたのだが、範頼頼朝勢の疳気に触れて追われ哀れな末路を遂げたのだった。
 
(平成9年5月発行)

 
「元向寺」

 坂戸小学校前の町道は、下泉から本郷を経て、協和町へと通じるのだが、途中に西飯岡地区土地改良水利組合の記念碑が建立されており、そこから北ヘ向かうと元向寺坪の集落がある。
 この地区の道路西側に一段高い山門と石垣の上の堀の奥が本堂で、滋賀県は坂田郡番場駅蓮花寺末の寺院で東桂山元向寺、御本尊は阿弥陀如来といわれ、約七〇〇年前に儀空代菩薩一向後聖上人の開山といわれている。
 現在の檀家数は約120軒といわれる元向寺は、初めは当地区内池上の山中に建立されたが、山火事からの失火で焼失、元禄年中に中屋敷というところに移り、その後いつの時代にか現在地に移ったのだが、明治二十一年の火事で焼失、大正五年に檀家の熱意で寺再建の工事を起工、大正六年十二月六日には、盛大な入佛式を挙行したと伝えられている。
 この元向寺の時宗は鎌倉仏教といわれ、遊行上人ともいわれた一遍上人が開祖で建治元年に時宗教団を設立したといわれ、一向念佛を唱えては、南無阿弥陀仏と書いた紙を人々に渡しながら、念仏の有難さを説き、また全国を廻りながら現在の国宝一遍上人絵伝を残し、また盆踊りの始まりといわれる念仏踊りを広めたといわれ、黒染の衣がねずみ色に変化した上人の古事に因んで、元向寺住職には法衣着用が許されているのだった。

(平成9年6月発行)

 
「坂戸判官」

 元向寺から池の下の道を東ヘ進むと、旧家鈴木家があった。
 伝えによれば鈴木氏は約八百年もの昔の文治五年、奥州平泉の藤原泰衡が父秀衡の期待に反して頼朝の追討を逃れた源義経を衣川に攻め自害させたのを知った頼朝が、恐るべき戦略家である義経の亡くなった今が、東北の王者藤原氏討伐の時であると関東の兵を中心に二十万余りの大軍を率いて三方面から進撃、頼朝は現在の四号線沿いに進んだと伝えられているのだが、坂戸郷の鈴木三郎重家も頼朝の軍に参陣、その手柄によって左三つ巴の家紋をたまわったと云われ、その後は代々坂戸判官として伊勢守を称したが、室町時代は応永の頃、芳賀氏の一族小宅高国が宇都宮の将として坂戸に着陣、坂戸山に築城した折りに小宅に供え重臣であったが、慶長二年所領いつわりの罪で宇都宮氏が豊臣秀吉の命で取りつぶしとなり小宅氏も没収となり坂戸城も廃城となり家老職であった鈴木氏は郷土として土着したのだった。
 明治期の昇竜小学校育ての親鈴木信一郎氏、民権運勤にたづさわりながら政治家を志して西那珂村長、県会議員等の要職を努めた鈴木藤一郎氏もこの家の生まれであった。
 
(平成9年7月発行)

 
「満願寺とその界隈」

 荒宿の東台地に満願寺という真言宗は豊山派のお寺がある。
 山門の下には大きな碑に如意山宝樹院満願寺と大きくきざまれ、その脇に「右ほとけ我ぞ合す手の中ぞゆかしき南無の一声」と小さく記されている。
 南に面した本堂は、満願寺の板額がなければ民家かと思われそうだが、応対に出た住職が語るには、今から千百年も昔の平安時代、高野山に学んだ真雅法印大和尚が開山したと伝えられ、鎌倉時代に小山郷持宝寺の末寺となって現在に至っているといわれ、大日如来がご本尊である。
 また寺には戦国期の坂戸城主であった小宅氏の位牌が祀られている。
 寺院東高台は墓地で、延命地蔵尊や水子地蔵の石仏が祀られ、北側には方丈の薬師堂も建てられている。
 満願寺の坂を下って、広い屋敷の旧家市村家の庭の隅には天保五年に建立された二十三夜塔が祀られ、飯岡村講中と記されていた。
 またそこから道を南に歩くと入と云われる地区になるのだが、そこの旧家である柳田家の石垣の中には大きな石の百番観世音が祀られ、文久二年九月吉祥日女人講と記されている。

(平成9年8月発行)

 
「天目山から神田坪へ」

 満願寺の東の峯を天目山、またはお富士の山と云われ、昔雨乞いをした跡がゴルフ場造成前までは現存していたと云われている。
 この雨乞いの場所は、二間四方位の土地の上に「あめだんぼこ」という石があったと語られているから、この石の祭壇に竜神を祀り、降雨の祈願をしたものと思われる。
 このお富士の山東ふもとが神田坪で、現在梨園を経営している旧家の入江家には、江戸時代の往来手形が二通と西飯岡地区を領していた旗本、井上兵庫守宛の書状が現存している。
 それには「西茨城郡坂戸庄飯岡村井上兵庫守様 慶応三丁卯年天長御領地御成」と記されているが、当時の入江家は、西飯岡集落の百姓代を務めていたと云われるので、この書き付けが残されたものと思われるのだ。
 往来手形は、天保四年と弘化四年発行の二通で、親鸞上人旧跡巡拝が目的で板敷山正行寺より関所役人、及び宿場役人あてに書かれたもので、入江家先祖の「長左衛門」とその子「宇之助」が使用した通行手形である。
 入江家の梨園傍らには、昭和三年建立の馬頭尊があり、農事共同経営組合と刻まれているが、当時青年であった「入江頼三氏」「稲川保氏」らが中心となった組合が、草競馬の収益金で建立したものと云われている。
 
(平成9年9月発行)

 
「白山神社」

 西飯岡集落東側の信号を西ヘ歩くとすぐの石材工場の中の道を北へ進むと白山神社の鳥居が見えてくる。
 参道は緩やかに登り坂で処々に石段があり、石段の上の社殿には、白山神社の額が金色に輝いて見える。
 境内は静かで石の狛犬と神灯が両側に並び、東側には創建一千二百年と記された祈念碑、奥には八坂神社と愛宕神社が祀られている。
 一千二百年前と云うと奈良時代であり、関東ではまだ古墳時代が続いており、幾多の坂戸古墳が築かれた頃に祀られたかと思うと今更の如く歴史の深さを偲ばれる。
 この白山神社は、日本神話の夫婦神であるイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神をお祀りしているが、神話によればオノコロ島へ降った二神は、社殿を造って夫婦の契りを結ぶが、社殿をめぐりイザナギノミコトが「わが体に成り成りて成り余りたるところが一つある」と云うと、イザナミノミコトは「私の体には成り成りて成り足らざる処が一つあります」と云ったので、二神は成り足らざる処に成り余りたる処を結合して多くの神々を生んだと伝えられている。
 この境内入り口の道路東には、二十三夜供養塔があり、天保五年九月吉日講中と記され、江戸時代の二十三夜講の名残を今に伝えている。
 
(平成9年10月発行)

 
「名勝桜川の桜と石倉重継」

 石倉重継は、明治二十八年に「桜川事蹟考」を出版発行して、埋もれかかっていた郷土の名勝「桜川の桜」と桜川八景として「青柳の糸桜」等の岩瀬の名蹟を記した事蹟考を、多くの有名人に寄贈しては磯部の桜の宣伝につとめた。
 明治四十五年の四月、当時の天然記念物保存会長徳川頼倫氏と理学博士の三好学氏が磯部に来訪、磯部の桜を西の吉野に並ぶとして賞賛したと伝えられ、大正十三年に「名勝桜川」として国の天然記念物に指定された。
 この第一の功績は、坂戸の石倉重継であり、旧笠間藩主牧野正臣、栗田寛を始めとした当時の文化人の絶大な賛助によって、「紀貴之」以来の名勝地「桜川の桜」が埋もれることなく現在も毎年盛大な桜まつりとともに磯部公園として保存されている。
 さて、石倉重継の育ったところは、西飯岡中央の高台で、昔は御本宅と云われた稲川家の屋敷跡で、筑波加波を一望に見える景勝の地に、明治八年旧笠間藩主石音倉又市の長男として生まれ、現在の水戸一高を中退して文学を志して上京。
 短歌の師から桜川古蹟をたずねられて答えられず、それを恥じて桜川調査に没頭し桜川事蹟考を表した。
 晩年は、俳号を翠葉として俳誌「桜魚」を発行していたが、昭和十三年に東京で他界、石倉が桜川を歌った代表句「桜魚掬はば花となりぬべし」の句碑が、現在も「名勝桜川」の大きな碑の傍らにひっそりと座している。

(平成9年12月発行)

 
「明治天皇野立所」

 長方集落は、北に西飯岡、南に大和村高森、東に鍬田富岡地区、西は中泉下泉の集落に囲まれた広い地域で、昔は新治郡大幡郷の本郷と云われていたと伝えられているが、明治十一年に小幡村と上野新田村が合併して、長方村となったと云われている。
 江戸時代、笠間藩領、旗本領であったが笠間領には、北郷の代官が置かれていたと伝えられていて、現在は南区、北区の二行政区になっている。
 まだ昔の人には、長方よりも小幡のなまった言葉である「オッパタ」の呼び名が懐かしく、現在も使われている。
 また、長方南を通る結城街道には、江戸時代に伝馬の中継所があって、辛い課役に耐えていたと云われている。
 坂下を南に流れる逆堀川に架かる橋は元禄橋で、近くに天保十四年建立の馬頭尊とみやした橋がある。
 ここから眺める道は「おお坂だ」の言葉どおりの長坂が続き、歩くと北側の土手に六体の石地蔵、その上に石鳥居が見える。
 登ると「史蹟明治天皇星宮野立所」の碑、中央には大正三年建立の忠魂碑、その奥に「明治天皇駐暉之地」と書かれた碑が建てられている。
 明治三十三年十一月の大演習の時、天皇がこの地でしばしの休息をした所で、史蹟に指定されている。
 
(平成9年12月発行)

 
「星の宮神社」

 長方南地区の旧50号のゆるやかな坂を登ると、明治天皇野立所の西側に小高い台地に上がる石段が見えてくる。
 長方南と中泉集落の鎮守である星の宮神社である。
 石段の上には平成になって建てられた石鳥居があり、それから杉社の長い参道を進むと、石燈寵が二対と狛犬が並び、その奥は最近建て替え修復された拝殿と御神殿がある。
 古老の話によると、拝殿の棟木に「植木某」と記された棟札が発見されたといい、昔の拝殿建築当時の氏子総代の名であろうかとも云われている。
 昨年、拝殿前の東側にあった虚空蔵様と伝えられていた穴に、地区の人々の古いダルマやお礼などを重ねて処分していた場所を整地したところ、土中から石佛が現れた。
 町の文化財の権威に調査をお願いしたところ、大日如来の石佛と云われ、地区では石祠を作り安置、丁寧にお祀りした。
 また、地区の古い家では昔は鰻を食しなかったと云われているが、現在はその理由は説明できないということだ。
 神社誌によると石裂命を祀る星の宮神社は、上野新田村、小幡新田村、中泉村の三ケ村の鎮守で、本殿一間四面美麗彫刻、幣殿一間三間、拝殿三間二間と誌され、昔から虚空蔵様とも呼ばれていた。
 
(平成10年1月発行)

 
「丹宮稲荷」

 長方集落も中泉に近い第五消防分団の詰め所の東には、海老原丹後の屋敷があったと云われ、現在もその子孫と云われる海老原氏が居住している。
 消防小屋脇の石鳥居をくぐり、杉木立の参道を進むと、大きな桜の樹が天空に聳え、そこにも石鳥居が建てられている。
 その先にお宮が二棟、東が丹宮稲荷で海老原丹後を祀り、西側は近年移された八坂神社だ。
 岩瀬町誌によれば「右の用水堀申儀は、慶安五年に高森村との水論から上野村、中泉村、小幡新田村の名主が江戸表へ出訴し、逆さ堀工事となった」と誌され、工事責任者には海老原丹後がたづさわったが、低地の上野沼から高い土地を堀抜いて低い所へ水を流すために、夜に堤灯の灯かりで土地の高低を測量したと伝えられている。
 当時の笠間藩主井上河内守の計画ではあるが、笠間領農民等の強制的な労力奉仕に頼った難工事であったがために「田にビルモ畑に地シバリ上野に丹後がなけりや
よい」という唄が流行した程で、如何に地元農民の負担が重かったかが偲ばれると、近くの古老はしみじみと先祖の苦労を語る。
 泪堀と云われた逆さ堀は、現在は道路の下や霞ケ浦用水の大管埋設により埋没されているが、逆さ堀のおかげで開発された新田に、後の世になり海老原丹後の恩に感謝して祀られたのが丹宮稲荷なのである。
 
(平成10年2月発行)

 
「勝楽寺の跡から南へ」

 牧野貞長時代の安永五年に書かれた笠間藩史料に、明応年中開基、開祖玄海と記されて三木山観蔵院とあり二間四面の薬師堂もあったと書かれている。
 この跡地に、長方分校が設立され昭和五十八年まで続いたが、現在は「長方南・中泉農村集落センター」が建てられて、前庭は老人たちのゲートボール場になっている。
 このセンターの東側には、「岩瀬町立坂戸小学校長方分校」の細長い碑が建てられて、その脇に横長の碑がある。
 それには、「長方分校廃校記念タイムカプセル・2013年開封PTA」と記されていた。
 廃校から三十年後のこの地区が、そして分校の生徒たちがどのように変わっているか、このカプセルに託された生徒や先生、そしてPTAなどの皆さんの熟い想いが埋め込まれているかと思うと私の胸もはずむ思いだ。
 また、勝楽寺境内の薬師堂は、現在もゲートボール場の東側に、赤い屋根で現存している。
 ここから南、国道を越えての坪には、故若林一男氏の家がある。
 四十七歳の若さで他界した一男氏は、新進のマンガ画家として広く世に認められたところで、惜しくも鬼籍の人となったのは無念の一語につきる。
 長方と大和村高森の境を流れる堀は飯島川で、大沼からの水が流れる用水路で、大切な堀川であったと伝えられている。

(平成10年3月発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」
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