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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成11年度
 
「本郷地区と妙法寺」

 本郷地区は、岩瀬盆地の西方にあって、東は下泉、堤上地区で、西は協和町に境している。
 集落の中を岩瀬町から協和町への小栗街道が通じ、古くから坂戸本郷として常陸国詰には、「郎和名紗、新治郡坂戸の本郷ナリ」と記してある。
 また、坂戸の地名は、応永三十年三月に鎌倉御所といわれた足利持氏から宍戸弥五郎に与えられた感状に「去年十五日常州坂戸合戦の時」とあるから坂戸本郷といわれたこの地も、南北朝から戦国時代には、坂戸城と共に幾多の戦乱に巻き込まれたものと偲ばれる。
 本郷に秋嬌山妙法寺という古刹があり、本尊は水引地蔵と伝えられ、今から1200年有余年の昔に下野の広智上人が坂戸郷の上の原地内に草庵を作り、晶屋精舎として道場を開き、平安時代に滋覚大師が自作の地蔵菩薩を本尊仏として阿矩耶摩山と称したのが寺の始まりである。
 後には十輪院妙法寺と改めたと伝えられるが、幾多の戦乱を径てから現在地の本郷に移し祀られたといわれている。
 山門は町の指定文化財になっており、門前には久原の市村氏奉納の狛犬が並び、その東脇には、中心が空洞になっている杉の巨木が高さニメートルのところで伐られて、この木は、七百年ぐらいの古木ではあったが、境内を明るくするためと危険防止のために倒したが、記念に残したのだと住職は語っていた。

(平成11年4月発行)

 
「妙法寺縁起水引地蔵」

 「秋嬌山地蔵院妙法寺」は、古くは平将門の天変の乱時に上野原で焼失したが、後に坂戸判官藤原範明が上野原に再建したと伝えられている。
 そして、応仁の乱時にまたもや焼失したが、慈覚大師作の地蔵菩薩は難を逃れ百年後の天亀年間に現在の本郷地区に移転したといわれている。
 近年になり、妙法寺本尊の水引地蔵菩薩の胎内からは、摺佛絵が多く発見されたといわれ、この寺の由諸に感無量の思いがする。
 また、妙法寺には、本尊にまつわる次のような昔話が伝えられている。
 山から水を田に引いて稲を作っていたが、ある年の夏は雨が少しも降らず、川の水は上流で堰止められて下には一滴の水も流れず、ようやく植えた稲も枯れるばかりで、百姓はほとほと困り果てていた。
 上の長者がある朝の田回りの時、下の田にも水が満々とあふれているのでびっくりした。
 長者は夜中に家来を連れて堰の見張りをしていると、水盗人がひそかに堰を開けていたので、長者がその人影に弓矢を命中させると、その人影は妙法寺の境内に入って姿が見えなくなったが、本堂のご本尊に眼を移すと地蔵尊の胸に矢が刺さっており、夜中に下の田に水を引いていたのは、本堂の地蔵菩薩だった。
 それからというもの長者は、己の非を恥じて堰水を止めることはしなくなり、だれからともなく、ご本尊は水引き地蔵といわれるようになったそうである。

(平成11年5月発行)

 
「妙法寺の即身仏(ミイラ)」

 妙法寺本堂内の東側に安置されている即身仏となった舜義上人のミイラは、茨城県内では二体しか発見されていないミイラのうちの一体だが、七十八歳という高齢でありながら、石室内に入定した尊いお姿が、三百有余年を経た現在も座禅姿のままで拝観できる。
 伝えによれば鎌倉の宝戒寺から妙法寺住職として移られた舜義上人は、余命いくばくもないことを悟った貞享三年のある日、近習の者を叫び集めて「私は八十近いこの年になってようやく御仏のお迎えを知りました。近いうちに阿弥陀様の石室で入定するつもりだが、三年の間はのぞかないでほしい。」と語った。
 上人は、石室内に自ら入り、それから七日七夜にわたって鉦の音と念佛の声が聞こえたという。
 それから三年後、石室をのぞくと完全なミイラ姿になった舜義上人が生きるが如く数珠をまさぐっていた。
 即身仏の始めは、弘法大師として有名な空海が高野山奥の院に入定したと伝えられる。
 湯殿山の真如海上人のように、十穀断ちをして竹の管で呼吸をしながら、念佛が途絶えると棺から出して煙であぶり、死体をくんせいのようにして内臓のかわりに石灰をつめ、衣を着せたのが普通の即身仏(ミイラ)と伝われる。
 信仰の末に即身仏になった舜義上人の御姿は、岩瀬ならず日本の宝と言っても過言ではない。

(平成11年6月発行)

 
「土豪の館」

 妙法寺門前の道を西へ歩くと、道路北側に大きな屋敷が見えてくる。
 武家門といわれる四ツ足門前の庭道は、大寺の門前のようで五十米近くあり、高床で床下は大きな犬も自由に駆け回れるほどである。
 今の家では考えられないほど風通しの良い建築で、中世の豪族館の姿を現在に伝えている。
 ナカニシと呼ばれる仁平家は、昔は三重の壕を廻らしていたといわれ、中世の建築関係の権威である一色文彦氏は、貞享年間に建てられたという仁平家を見て「県西地区には土豪の家がどこかに残っていると思っていたが、仁平家こそ私が探し求めていた戦国期の土豪です、県の文化財級の建築だが屋根が改修されていて、指定できないのが残念です。」と語ったといわれる。
 天正十一年九月、笠間の代官として羽黒に駐していた満川勘左衛門は、富谷城主加藤大隈と争乱に及んだとき、同じく笠間方の与力で田野城主羽石内蔵助か、この争乱の時を逃がさじと南の金敷城を攻めて、金敷清久を結城に敗走させた。
 持久は、結城晴朝に助けを請うと、晴朝は早速、羽石、金敷を和解させ、金敷清久を帰城させたが、翌二月の末に羽石軍は、突如夜襲して金敷清久を滅ぼしてしまった。
 大いに怒った結城晴朔は、久下田城の水谷勝俊に田野城を攻めさせ羽石内蔵前は討死落城した。
 この羽石軍には、岩瀬地方の土蒙も多く参陣していて、仁平家の先祖といわれる仁平大膳も奮戦していたと伝えられている。

(平成11年7月発行)

 
「瓦塚から不動様へ」

 妙法寺から西へ仁平家の前の農道をしばらく歩くと、野菜を栽培している大きな鉄骨ハウスがある。
 その東側の台地畑の裾に一本の標柱が建っている。この池下の南斜面が奈良時代に古代瓦を生産した場所で、古老の言によれば、近くには良質の粘土が現在もあるといわれ、「土師部」といわれた職人集団が、この地で奈良時代から平安時代にかけて瓦生産に携わり、新治郡衙、郡寺等の建築の一翼を担ったであろうことを考えると、時代のうつろいをあらためて思い起こさせられる。
 ここの北側、小栗街道わきに回りをけずられた塚があり、塚本古墳の標柱が建てられているが、竹林のなごりの切り株の間を歩いて頂きに立つと、古い墓石が残されていた。
 この近くの旧家で、現在の本郷区長の屋敷にも同じような古墳があるが、名称のないのが残念である。
 塚本古墳から西の内山坪には、自然石に火焔を現したご本体をお祀りする大聖不動明王のお堂があって、地元ではお不動様とよばれ、七月二十八日がご縁日であるが、現在はこれに近い日曜日が祭日とされ、今年は二十五日に祭りが行われた。
 また、境内には護摩供養塔の碑が数基建てられている。

(平成11年8月発行)

 
「堤の上」

 堤の上集落は、北に大泉集落に境する菩堤山がそびえ、西に本郷集落、南は下泉集落に接している。
 古くは坂戸城の小宅の重臣であったと言われる深谷氏が土着して金山地区に住んだと伝えられ、現在も堤の上集落の大部分が深谷の姓を名のっている。
 ある古老によれば、堤の上とは、昔、坂戸城の防音の堤があったので集落の名称が「堤の上」になったと言われている。
 豊臣秀吉の命による坂戸城取り壊しの後は、笠間席順となったが、江戸時代の末期には、中根・井上の両旗本領に分割統治されていたと伝えられている。
 金山という地名は、坂戸城時代に金を掘ったからと言われており、また、確かな話としては、明治期にガラスの原石が採掘されたそうである。
 また、幕末期には、本郷堤の上の中根領では、桜町陣屋の二宮尊徳の指導で、天保の大飢饉の際に、自分たちの田畑を質草にして領主に給米借用を願い出、二宮尊徳から食糧を融通してもらい、その指導を受けて働いた結果、天保十三には、無事領主に給米借用金を完済できたという話もある。
 
(平成11年9月発行)

 
「金山地区を歩く」

 堤の上集落には、江戸時代までは妙法寺の下寺であった金山地区の真珠院と、菩堤地区の菩提寺に坂戸元向寺の末寺であった能性寺の二寺院があったと伝えられている。
 真珠院は、四ツ足門のある旧家で本宅の屋号のある深谷家の門前の西側山林で、二十三夜供養塔と木枠に囲まれた古井戸がその名残をとどめていた。
 この真珠院跡の西側の長屋門の深谷家が、町の人権擁護委員として、町民の人生相談を長くつとめていた故深谷策二氏の生家でもあり、明治三十八年から大正九年までの十六年間、西那珂村の名村長といわれた深谷文哉の養父善八郎が分家した実家とも伝えられている。
 それから、東に坂下へ歩くと、集落の近代センター西隣がかつての深谷文教の屋敷で現在もマルダイの屋号で呼ばれ、子孫は現在も文教の徳を偲んで、代々名前に教の一字を入れていると当主は語っていた。
 金山から菩堤地区への古道をたどると、御客様と親しまれている御霊神社で、境内に野佛等の碑が並び、杉の参道の奥に祭神である清和天皇が祀られている。

(平成11年10月発行)

 
「菩提地区を歩く」

 小栗街道沿いに大きく「報徳」と記された土地改良記念碑が建立されている。
 この西を約百メートルほど北へ向うと、菩提集落があり、大泉地区に抜けるのである。
 今は薬師如来が祭られている堤の上生活改善センターの脇を歩くと、家々に通じる二本の坂道があるが、一本目の路脇には、砥石神の碑がひっそりと祀られ、二本目が菩提寺跡へと向う路である。
 途中、名主の家柄と言われる家の庭隅に石像があって、阿弥陀様が祀られ、阿弥陀如来と書かれた幟旗が風に揺られていた。
 その脇の坂道を進むと、高いところに寺跡がある。
 今は昔、無住を幸いに胎内仏を盗んだ石工が、料で仏像を溶かそうとしたところ、その火花でケガあるいは亡くなったとも伝えられているが、胎内仏は無事で、現在は旧家の家宝として祀られているという話である。
 また、切り通し手前の海老沢家の裏には、イボ取り地蔵と伝えられる石仏が祀られていた。

(平成11年11月発行)

 
「切り通しから花見堂坪へ」

 堤ノ上地区から大泉地区の堀の内に抜けるためには、昔は城山の峰近くを越えていかなければならず、大泉地区の年貢米は、神田から坂戸をまわって運ぶので大変な遠まわりだった。
 現在は、舗装された道路が走っており、この道路の頂には、2基の碑が建立されている。
 山の形をした自然石の古い碑には、「中根領従是平陸也神山勝秀」と大書きされ、脇に建てられている大きな碑は、昭和四十年建立の記念碑で、そこには宝歴五年七月より翌六年四月にかけて約一年近くの工事であり当時の大泉村名主であった神山居秀が、それまでの難路であった杣道(木材などを運搬するための道)を当時三十五両もの莫大な私財を投じて人馬の往来できる街道として整備し堤ノ上地区の人々の協力を得て開通したと記されている。
 この切り通しから花見堂坪ヘ下る途中に、菩提山の北側に抜ける道がある。
 この道は、昔の砥石山へ通じる道で、現在は草でわからなくなっている。
 つい近年までは、大泉砥石としての評判が高く、貨車で遠くまでも運ばれていた。

(平成11年12月発行)

 
「堀ノ内古窯跡」

 花見堂坪の旧家・上野武臣宅入り口の坂には、「堀の内古窯群跡県教育委員会指定」と記された、大きな石碑が建立されている。
 さらに、屋敷内の坂を桧林の裏山へと登ると、奈良・平安時代頃と思われる古い窯跡へとたどり着く。
 上野さんは、子供のころ父から裏山に古窯跡があることは聞いていたそうだが、近在の歴史愛好家が訪れるようになった昭和三十一年十二月、県教育委員会による第一次調査が行われた。
 それから、昭和三十三年四月までの四回にわたる発掘調査は、県歴史館、県教育委員会、京都府・奈良県の文化財発掘調査研究所の合同調査によって行われた。
 自然の地形を利用して、細長い坑道をつくったその結果、古窯が十基も確認され、現場からは多くの土器片と共に、皿・高杯・婉・壷・古瓦片なども出土した。
 また、「新大領」と走書きされた土器の発見によって、当時の新治郡の大領家との関わりを考えると興味の尽きないものがある。
 現在、この史跡は当時発掘にも協力した上野氏が、万全の注意を払いながらの維持管理に努めている。

(平成12年2月発行)

 
「鴨鳥五所神社」

 飯渕から大泉集落に入ると、街道脇に「鴨鳥五所神社」と記された案内碑が建っている。
 参道は急な坂道で、杉の大樹や照葉樹が茂り、県の「自然保護特別地域」や「自然の森百道」に指定されているのもうなずける。
 社殿の前には、途中で二本に分かれた巨杉が御神木のようにそびえ、正面拝殿西脇には、幕末時代に幕府御用船使用のために、伐り出されたという大杉の根株が保護されており、これも二本に分かれていたらしい。
 この鴨鳥五所神社は、平安初期の大同四年に現在地の西は、飯森峯という所に伊弉諾命、伊弉再命の二神を祭ったのが始まりで、後に結城朝光が戦捷を祈願して、現在地に鹿島・二荒・出雲・南宮の四社を合祀して鴨鳥五所神社と称し、昔は境内に「無量院」という寺があったとも伝えられている。
 また神主が語るには、神社には応永二十九年の芳賀二郎や永享七年、文明二年、元禄十七年の棟礼と徳川将軍からの朱印状が伝えられているという。

(平成12年3月発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」
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