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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成14年度
 
「富谷西地区を歩く」

 大霊寺の西、一段低い所に大きな地蔵尊が祭られている。
 この場所が、戦国時代に富谷城を築いた加藤大隅守が、開基したと言われる能福寺の跡である。
 能福寺は、小栗村(現・協和町)一向寺の末寺で、良阿徒弟口善師の開山と伝えられている。
 この寺跡の下を南北に、富谷観音参道が走る。参道の中程には、寛延の三義民と言われた佐太郎の生家がある。
 佐太郎は、寛延二年(1749年)に起きた山外部百姓一揆の中心人物である。
 この時代、華やかな元禄から天災地変のつづく享保年間を経て、農民は、不作続きのため、年貢納入に苦しんでいた。
 この時、佐太郎ら三人が中心になり、笠間藩山外郷三十ヶ村の農民を集め、強訴(一揆)に及んだのである。 その後、首謀者については、途中から強訴の首謀者ということで、他の二人に比べ軽い刑が下された。
 
(平成14年4月発行)

 
「高尾神社」

 富谷・東の宿通りのゆるい坂道を下ると、集落の鎮守「高尾神社」に至る。
 この神社は、軻遇突知命を祭神として集落北部の権現峰に祭られていた。
 源頼朝に従い平家追討に手柄を立てた秩父庄司畠山次郎重忠が参拝したと伝えられている。
 建武元年には後醍醐天皇の忠臣であった里小路藤原藤房も参拝、当時社殿が荒廃していたため、建武三年に現在地に再建されたと伝えられている。
 現在、神社前の道路は、直線になっているが、古い道は、南に弓なりに曲がり、鳥居も旧道側にあって、現在よりも広い境内であったと伝えられている。
 この高尾神社には、幾代と思われる椎の巨木が立ち護神木の七五三縄が張られていた。
 鳥居西側には、寛政九年等の年号が見える「二十三夜」「庚申」「勝善」など江戸時代の碑が並び、続いて「東の村社高尾神社」と大書した碑は、当時の西茨城郡長殿岡徳三郎の書で大正八年十一月十五日に建立されたものである。

(平成14年5月発行)

 
「郷の石室古墳」

 高尾神社の東は郷坪である。この郷を屋号としているのが「中田治成氏」の家である。
 岩瀬町史によると、慶長二年に書かれた宇都宮氏支配地の「旧臣姓名書」に富谷村中田馬之助の名があり、宇都宮氏が笠間氏を滅ぼした後、豊臣秀吉の命により断絶になるまでの束の間、岩瀬地方の土豪が宇都宮氏に臣従していたことがうかがえる。
 昭和初期に、上城の谷中家から移築したと伝えられる長屋門と広い屋敷は、豪農のたたずまいを今に残している。
 門の前には「郷の石室古墳」の標柱かおり、母屋裏手に円墳が現存している。
 塚の上には、幾世代となく生き続けた椎の木の根が縦横に張り、墳頂には「黒袴大明神」の祠が祭られている。
 この塚は、以前発掘されたのか、勾玉などが出土したと伝えられている。
 古墳の北側、関戸地内には、郷の窯後と伝えられる遺跡があり、昭和初期に協和町の郷土歴史家藤田清氏が調査したところ、多くの古瓦が出土したと伝えられている。

(平成14年6月発行)

 
「大日如来 小山寺から慈恵寺へ」
    
 六月十一目、文化財と社会教育両審議会委員の研修で山形県寒河江市の慈恵寺を訪れた。
 季節は桜桃の収穫の季節。折れんばかりに実を付けた枝が境内まで伸びていた。
 慈恵寺は、富谷観音をひと回り大きくした配置の寺である。
 境内三重塔に安置されていた木造大目如来坐像修理のため、昭和五十九年に京都に依頼した時、仏像の胎内に竹筒に納められたお経一巻が発見された。
 その奥書には、大毘廬遮那成仏神変加持経 巻第一 弘長三年(1263) 第歳葵亥十月廿日 常陸国笠間郡 小山寺 大檀那前提門守藤原朝臣時朝、とあった。
 このことから、笠間城主であった笠間時朝が、支配地である富谷山・小山寺に寄進した大日如来坐像が、時を経てみちのく寒河江市の慈恵寺まで遠い旅をして、安住の地を得たものと恵われた。
 慈恵寺住職の話によれば、金剛界大日如来である木像には修理前から何かが胎内にあると予想していたが、まさか、茨城県岩瀬町小山寺との深いつながりに驚いていた。
 木像の台座や光背は、室町期に慈恵寺で制作されたものであるが、本像は僧侶などに背負われて運ばれたのではないかとの話であった。
 ちなみに慈恵寺の歴史をたどると、行基が聖武天皇の勅令で、天平十八年(746)精舎を建立したことが開基と伝えられる等、富谷山・小山寺に似た伝えが残っている。
 現在、大日如来は国指定の文化財として、ふるさと小山寺・三重塔より広く大きな三重塔内に、智拳印を結んで静かな微笑をたたえている。

(平成14年8月発行)

 
「岩屋古墳から剱の前古墳へ」

 富谷地区の東、岩屋坪にも郷の石室古墳と等しい岩屋古墳があり、頂上には祠が祭られていた。この東の椚田坪から中里集落へ歩いていくと道路脇に「中里古墳群」の標柱が建てられている。傍らには天明四年に建立された二十三夜供養塔と石仏が祭られていた。
 古老の話によると、中里山には戦時中、陸軍が進めていた本土決戦に備え掘られた壕がトンネルになっており、山の上では、当時、幾つかの古墳が発見されたと伝えられている。
 この東、集落の中ほどに山頂へ登る道がある。山頂を目指し細い道を登って行くと、石段に続き集落の鎮守である二所神社の拝殿に突き当たる。
 二所神社は明治六年に日本武尊を祭神とする八剱明神と石裂神を祭った石神様を合併して、三間と二間の拝殿に屋根の高さまで石段を積み上げ本殿を祭祀した神社である。
 境内社としては鼻天狗といわれる琴平社、大杉社、天満が祭られている。
 この本殿前が剱の前古墳で、現在、石室と思われる磐座には、一体の小さな仏が安置されている。

(平成14年9月発行)

 
「中里瓦と軽部家伝説」

 富谷集落の岩屋坪には、大昔、瓦を製造した「薬師台瓦窯跡」という遺跡がある。
 それは、大川沿いに大量に出土したカワラ土を利用したと思われる。
 明治期に入り、入野集落の旧家である永瀬家と中里集落の旧家である軽部家の両家が、共同出資して中里の地にカマドを築き、このカワラ土を使って粘土瓦製造に乗り出した。これが中里瓦の発祥といわれている。
 この窯跡を引き継ぎ中里の粘土瓦を有名にしたのが、現在の和久井瓦店の三代前の先祖で、その伝統の灯は今も生き続けている。
 集落の中程、陣屋の屋号で呼ばれる軽部家の先祖は、代々次郎右工衛門を襲名していた。
 慶長二年の宇都宮氏断絶の時、軽部家は家臣として名を連ねており、その先祖は、鎌倉幕府の祖である源頼朝の乳母、寒阿見で下野の小山氏から分かれたと伝えられている。
 軽部家近くには、地区の公民館が建っているが、ここは昔の観音堂で中には、今も観世音と天道様が祭られている。

▲大川より中里集落を望む

(平成14年10月発行)

 
「観音堂から塩釜神社へ」

 中里から入野地区へ歩いて安達家裏の細道を進むと、傍らに明治期に建立された勝善神の大きな碑がある。
 碑から東北方向の小高い杜を「尾高山明神院観音様」と言い、徳一大師の開と伝えられている。
 この観音様は、子育ての観音様が本尊仏といわれ、厨子には文末十一年の銘が残されているとも伝えられている。
 観音堂は四間四面と大きな建物で、境内には、苔むした五輪塔や二十三夜塔が祭られ、毎月十五日には地区の長老たちが境内を清掃しているという。
 入野本田地区の裏山、林道の入野富谷線の北側台地に、集落の鎮守の神として塩釜神社が祭られている。
 境内は、数本の椎の古木に囲まれ、社殿などの屋根改修の記念碑や塩釜神社の碑が建立してある。
 本殿は、拝殿より一段高く建てられ、日光東照宮の彫り物を思わせる竜の彫刻がほどこされており、見るからに素晴らしい社殿である。
 塩釜神社の祭神は塩椎神で、塩作りや漁業安全の神として信仰され、日本各地に分社がある。

▲塩釜神社

(平成14年11月発行)

 
「版画家 永瀬義郎画伯」

 入野本田地区の永瀬家は、代々帯刀と駕籠を許された程の名門で、江戸時代には、笠間藩に財政援助を行ったとも伝えられる資産家でもあった。
 そんな永瀬家に、後に日本版画界の重鎮となった永瀬義郎が産声を上げたのは、明治二十四年のことである。
 義郎は、少年時代から画才に優れ、中学校卒業後、白馬会原町研究所へ。
 その後、東京美術学校(現・東京芸大)に入学。さらに、京都絵画専門学校(現・京都芸大)に通い、日本画の基礎を学んだ。
 また、義郎は文芸にも造けいが深く、二十二歳で文芸誌「仮面」の同人となり、宇野浩二・西条八十・広津和郎などと親交を深めていた。
 大正七年には、義郎が中心となり日本創作版画協会を設立。本格的な創作活動に入る。
 義郎は、大正八年に結婚、昭和二年に死別。大正十一年、版画誌「詩と版画」が創刊され、顧問として参加。
 この年、後に魯迅により、中国に広く紹介された「版画を作る人へ」が発刊された。
 同年渡仏。昭和十年に仏人テロンデール*と結婚。
 帰国後は、さまざまな彫刻展に出品。晩年は個展を中心に、ひたすら創作活動に励み昭和五十二年勲四等瑞宝章を受章。
 翌年、義郎は八十七歳で版画人生の幕を下ろした。

▲「もの想う天使」(73年作)

*実は日本人で、フランス人男性と結婚し未亡人となっていたという(編集部注)

(平成14年12月発行)

 
「入野新田界隈」

 入野本田から峠の坂を越えると入野新田の集落である。
 集落の間を流れる川は寺川といい、この地区の農地は、寺川の両側から山裾へと広がっていたが、現在は土地改良事業により整備され、田畑が整然と並んでいる。
 入野本田地区は、江戸時代の大水害のとき、雨巻山からの土石流が前根方面(門毛東)から流れ込み、石ころだらけの河原となり「入野川原」と呼ばれた荒地だったところへ、約二百年前、加賀から移住してきた熱心な浄土真宗の信者が入植、開墾の鍬を下ろしてできた集落である。
 その後、少しずつ石を取り除いて現在の美田にしたそうである。
 しかし、度重なる出水を防ぐため、堤を築き水害から田を守ったと伝えられ、現在でも、その一部が残されている。
 この地区の田への水引は、結城領の門毛地区からの分水に頼っていたため、水利権として一両の負担金を払ったかどうかは定かではないが「一両堰」の名前があったそうである。
 地区の北側、門毛境の丘の杜に、塚の木を伐ると崇りがあると伝えられる「野合古墳」といわれる円頂が残されている。

▲木立に眠る「野合古墳」

(平成15年2月発行)

 
「大川から二所神社へ」

 入野本田集落を東へ歩くと、新田地区から流れてくる大川に立派な橋が架けられている。これが「南橋」である。
 さらに東へ進み、三叉路を左に折れると、南飯田地区の鎮守社「二所神社」の鳥居が見えてくる。
 記録によると、二所神社の神門は元禄十二年九月安立弥五右工門奉納とあり、当時は白山神社であったが、明治六年の一村一社のお触れにより、鹿島神社を合祀し「二所神社」と改められ、伊肺再尊と武下妻祐介を祭神としたのである。

▲けやきの大木

 境内には、神を祭る社殿のほかに、学問の神である猿多彦命などが祭られた小さな祠が配され、ご神木と思われるにれの大木が、これらの神々を守るかのように大空にそびえ立っていた。

▲二所神社

(平成15年3月発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」
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