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特別コース
いわせものがたり もくじ
平成12年度
 
「鴨鳥社前」

 鴨鳥神社参道入り口、大鳥居の脇に大きな碑が二基建立されている。
 そのうちの一基は、大正年間に、大泉、飯渕、久原、富岡、西飯岡、長方の六地区にまたがる耕地を整備した時の竣工祈念碑であり、当時県議会議員であった一色勝之助を中心とした事績が詳しく刻まれている。
 さて、参道左側の広い屋敷は、代々鴨鳥神社の宮司である上野家で、同家庭中央部の小高い所には、現宮司・貞瑞氏の叔父で元陸軍少将貞臣氏の慰霊碑が建立されていた。
 貞臣氏は、明治二十八年に先々代宮司の二男として生まれ、昭和二十年六月二十二日「摩文仁」で戦死したと、碑に記されており、司令官・牛島中将の自刃も六月二十三日でこの日をもって沖縄戦は終結した。
 貞臣氏の兄・上野貞文氏は、長く伊勢神宮の禰宜職であったが、先年「鹿島神宮」の宮司として着任。
 平成十一年から境内御手洗での「大寒禊」の荒行を復活させたと言われている。
 
(平成11年4月発行)

 
「とのばし異聞」

 大泉地区「鴨鳥五所神社」ヘの道に架かる参宮橋の欄干には、「とのばし」と記されている。
 この橋は、かなり遠い昔からあったらしく、鴨鳥社宮司の家には「とのばし」についての言い伝えが残されている。
 今から約七百三十年前の文永十一年、四万ともいわれる元の大軍が北九州に上陸、鎌倉武士の夜襲を恐れて船上に帰っていった夜に嵐が吹き荒れ、さしもの大船もその多くが沈んだ。
 それから、次の元軍来襲に備えて弘安四年までの七年の間は、日本国中に非常事態が敷かれ、異国の侵略から国を守るための寺社祈願も盛んに行われるようになった。
 日蓮上人による蒙古軍調伏の修法も有名であった時代、時の執権であった北条時宗が戦勝祈願のため、鴨鳥五所神社を訪れ、その途中に渡った参宮橋を後の人々が「とのばし」の名で伝えたといわれている。
 「弘安の役」時分には、元寇堡塁が完成していたので、元軍も容易には上陸できず、またもや十万の大軍は、台風により海のもくずとなった。
 そして、これも神仏加護の神風が吹いたと信じられたのである。

(平成12年5月発行)

 
「角釜坪から宿へ」

 鴨鳥神社から角釜地区へと歩く途中、その峯奥には、「雷神様」が祀られている。四月に祭礼が行われていたが、現在は、神山地区の雷神様と共に、鴨鳥神社境内に合祀して、祭りは続けられている、ということであった。
 角釜地区の奥に、滝ノ入不動尊を祀ったお堂があり、一月二十八日の縁日には、地区の人々がお餅等を供えて信心講を続けているそうだ。
 同地区から宿の方へ田んぼの中の狭い道を歩くと、益子街道の北側に古い無住の寺「金性寺」がある。
 江戸時代の中頃、江戸は下谷銭座の住人・三谷三九朗が、幕府の許しを受けてこの大泉山に金山を開き、金鉱採掘に命を亡くした人々の霊を弔うために宝暦五年に創建、山号を三谷山と言ったと伝えられる。
 本堂前には、元文二年に神山藤兵衛寄進の観音堂があって、昔は御開帳時に「万灯会」が催されたと伝えられる。
 寺内には、宝暦十三年に寄進したと伝えられる梵鐘があったが、太平洋戦争中の昭和十九年に、軍に供出させられた、といわれている。

(平成12年6月発行)

 
「渓雲寺界隈」

 つくば・益子街道の旧道、大泉、往還の東入口に集落センターがあって、右に曲がると広い庭があるが、そこは昔の大泉小学校の跡地である。
 大泉小学校は、明治七年一月に「金性寺」を仮の校舎として当時の戸長であった袖山準田が開校したと伝えられる。
 センターから少し歩くと、高台に渓雲寺山門がある。
 本堂前には旅姿の親鸞上人の銅像があることでも分かるように、浄土真宗の寺で、江戸時代の支配旗本・中根壹岐守の菩提寺として嘉永四年に建立したと伝えられる。
 この裏の墓地の高い所には、文化年間に建立された大阿闍梨法印真海塔と記された墓碑と並んで領主中根正芝の自然石の墓碑があった。
 そして近くには明治二十六年に建立された往相印懌唯存法師と懌妙華禅尼という住職橋本氏の先祖の法名を記した墓碑があった。
 また、寺には領主であった中根氏代々の位牌が祀られているとも伝えられている。
 
(平成12年7月発行)

 
「一色家」と「百目鬼家」
 大泉は旧道沿い中ほどの北側に、築百年くらいといわれる二階造りの大きな長屋門がある。この旧家が、一色○男氏の屋敷で春には満開のしだれ桜が見事な眺めである。
 昭和初期に、旧岩瀬町長を永く務めた一色武雄氏は、○男氏の父で、風格と人望は旧家の出にふさわしいものがあった。
 その父である一色勝之助も、県議会議員として活躍のかたわら、泉川流域を一望整然とした美田にすべく、耕地整理組合長の職に就き、大正三年二月にこの大事業を起工した。
 この実績は、鴨鳥神社前の「一色勝之助顕徳碑」に、憲政の神様とまでいわれた「尾崎行雄」撰文で詳しく記されている。
 この一色家は、江戸時代の中頃までは西南の台地近くに居住していたそうで、字名も「一色」といわれている。
 さて、旧道が新道に交わる手前の道を、北の台地へと歩いて行くと、百目鬼家がある。「百目鬼とは変わった名字ですね。」と尋ねると、「知らない人はなかなか読めないので困ります。」と言いながら、「ここの地名が百目鬼というので本当のことはわからないが、地名が名字になったのかも?」と、理一氏は語るのであった。

(○=金へんに堅)

(平成12年8月発行)

 
「袖山郷の袖山家」大泉

 袖山家は、家系図によれば、当世で三十代と伝えられ、古く鎌倉時代にこの袖山に土着、戦国時代には地侍として土豪の列にも加わっていたものと思われる。
 明治二十二年の市町村制実施時の初代西那珂村長になった、この袖山家の隼太氏は、身長五尺(1.5メートル)に足りぬ小男だったため、常に高下駄をはいて他人に侮られぬよう気配りを忘れなかった反面、考えることが大きく、豪放で頭の回転が速かったといわれ、若年より戸長や村会議員として、四十年もの長きにわたって政治に没頭した。
 江戸中期の宝暦六年に、堀之内から菩提への「切り通し」を完成、その他にも多くの河川や土木工事を手掛けたとてわれる袖山藤兵衛が寄進したという「金性寺」の梵鐘は、現在は櫓のみを残すだけだが、その鐘の音はとても美しかった、と伝えられている。
 隣の旧家も袖山家で、東洋レーヨンの社長として、日本経済界のリーダー的存在であった「規矩雄」氏を輩出している。

(平成12年9月発行)

 
「大泉 下地区」

 元禄十年十二月、上総国(現・千葉県)から常陸国茨城郡は大泉村他二か村に、知行地を与えられた旗本・中根平十郎正冬は、通称三千石といわれる「高禄直参」であった。
 代々「平十郎」を称したが、明治維新の際に、江戸城を退去した徳川慶喜に従って水戸まで臣従した中根正芳は、慶喜が水戸を去るに及んで大泉集落センターの近くにわび住まいしたが、明治六年に病死。その子精八郎は、大泉小学校の教師となり、三十年間、教員生活に励んだ。
 「下地区」の旧道沿いには、馬頭観世音等の供養塔が七基建立されており、江戸期の年号を認めることができる。
 また、北山の台地には、昔の「東光寺」跡に「八ツ手観世音」と「薬師如来」をお祀りした薬師堂が現存していた。
 伝えによれば、「岩谷山覚成院東光寺」は、江戸末期に焼失したそうである。
 この北山薬師台から、田んぼを間にした東の台地が金井坪で、この地区奥の吉井家には、「カネガミ様」の祠が祀られており、近くの金井の井戸跡が、今でも水を湛えていた。

(平成12年10月発行)

 
「飯渕集落山の入り地区」

 「益子・岩瀬街道」の大泉から飯渕に登る古道には、「棒杭地蔵」と伝えられる野仏と並び、天明十一年建立の「延命観音碑」と「二十三夜供養塔」があり、天明二年卯年・十月二十三日講中の文字が刻まれている。
 その当時は各集落における「月侍講」が盛んに行われていたらしく、地蔵ともいわれていたという野仏は如意輪観世音で、この脇には「十九夜念仏仏供養」と記されていた。
 さらに、すぐそばの西穀巡礼碑には、「享和二年」の文字が刻み込まれており、往時の歴史が偲ばれる。
 山の入り坪のこの場所が、何故に「ボウグイ」と呼ばれるかは、ここに「是ヨリ東笠間領」の石柱が建っていたらしく、「盤城」の家号で呼ばれている仁平家には、標柱が現存している。
 また仁平家には、「笠間頷」と記された石柱のそばに五輪塔が二基あり、おそらく承平五年に始まった「坂東の大乱」で討死した平親王将門の供養塔と思われる。

(平成12年11月発行)

 
「堂の入り坪」から「香取神社」へ

 飯渕中央の旧道と新道とが重なる道沿いの「堂の入角」に、大きな地蔵尊が祀られいる。
 いつのころに祀られたものか、その由緒は地区の人々も定かではないというが、今も信心参りを続けているという。
 古くから庶民に愛されている仏様で、特に幼くして他界した人を死後の世界から救うと伝えられている。
 ここから砕石場へ向う道が「堂の入り」で、反対側の薬師堂は、昔この奥の山中に祀られていたと伝えられ、峰を越えれば遥か昔に長者屋敷があったと伝えられる「長者窪」へと通じる道である、といわれている。
 付近には古墳群があり「堂の入り古墳」の頂上には、「山の神神社」が祀られていた。
 また、この先の谷が柴坂で水の神を祀った不動尊がある。
 さて、飯沼地区西北の「かんどり丘」の麓には「香取神社」が祀られているが、今から約三百五十年前の万治元年に経津主命を祭神として、鎮守したと伝えられている。

(平成12年12月発行)

 
「久原のひょっとこ」

 久原といえば「ひょっとこ」と、知らぬ人のないほど有名なこの踊り、明治の初めに、市村直吉他十字余りの人々が各地の祭礼や厄落としの際に、催し物として公演したのが始まりで、地区の後継者によって伝承され、今日に至っている。
 古老の伝えによると「神楽舞」が源流といわれるが、この踊りの特徴は、漫才的な寸劇で、久原独特の芸である。
 楽器としては、鉦や太鼓の五人囃子で、段物と手踊りがあるという。
 現在知られている演目としては、「弥次喜多道中」「おかめ八ちゃん」「えびす鯛つり」「天の岩戸」「狐つり」等がある。
 寸劇「弥次喜多道中」は、旅姿の弥次さんと喜多さんが踊りながら現れて、ニセ神主と盃のやりとりをするなどして芝居を面白くするといわれている。
 古くは「ひょっとこ名人」が現れて、この芸城を高めたといわれ、昔は稲田の石祭りや笠間稲荷の祭事に欠かさず出演していたそうである。

(平成13年2月発行)

 
「住吉四所神社」

 飯渕から久原集落の南を通る道路は、大泉地区から西中学校への通学路であり、この途中には「宮内・医者・外内」と称される「仁平御三家」がある。
 さて、仁平医院西脇の参道をしばらく登ると、森内地内の「住吉四所神社」に辿り着く。
 石鳥居をくぐり、狛犬の間を進むと拝殿があり境内社として「天満社・大日霊社・大杉社」の三社が祭られている。
 正面の住神社の祭神は、「表筒男命・中筒男命・底筒男命」の三神と「神功皇后」とで、四所神社といわれている。
 伝えとしては、神功皇活征韓の偉業を称えて皇后を祭るとともに、海上安全の守護神である大阪府(摂津)の住吉神社の神霊を分配したともいわれている。
 社殿東の椎の古木の北には、大きな丸塚があって「森山台古墳」といわれているが、神殿建築のためか、削られた跡があった。
 
(平成13年3月発行)


古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」
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