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よみがえる金次郎

【八】名主舘野勘右衛門


 天保2年(1831)11月30日の早朝、この日は陰暦だから、今で言えば12月の末になる日です。この頃は晴れた日でも、日光颪(にっこうおろし)の空っ風が吹きつけ、骨の髄までしみとおる寒気の季節です。その日は生憎(あいにく)雨、冷たい霙(みぞれ)が頬を打ちます。

 前途に不安を抱きながら、名主舘野勘右衛門一行は蓑(みの)に菅笠(すげがさ)の出で立ちで、二宮金次郎(尊徳)のいる桜町陣屋(二宮町)をめざしていました。
 勘右衛門の懐中には油紙に包まれた青木村37名連署の嘆願書が入っています。この嘆願書には村の命運が懸かっていたのです。
 
 その嘆願書とは、次のようなものでした。
 
「青木村荒地起返難村復旧仕法取行方嘆願書(あおきむらあれちおこしがえしなんそんふっきゅうとりおこないかたたんがんしょ)」という表紙、書き出しは「乍恐以書付奉願上候事(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろうこと)」ではじまり、

「川副勝三郎知行所(ちぎょうじょ)である常州真壁郡青木村名主、組頭、百姓一同お願い申しあげます。私どもの村は、およそ7、80年以前家数130軒ありましたところ処、洪水により桜川用水堰が大破、普請行届(ふしんゆきとど)かず、村は困窮しております。冬枯れに野火が発生、離村・死潰(しにつぶれ)し31軒となり、年貢米も65俵、永(えい)34貫文(畑作の税)となりました。

 近年、桜町知行所の村々がご仕法により立直り、有難き仕合せに存じます。桜町と同じような荒地開発、入百姓などの救済策を、私共の地頭(川副氏)にお願いした処、地行所(青木村)立直りの工夫については、如何ようにされてもよいとの沙汰がありました。

 去る子年(文政11年)以来、西村組頭丈八(二宮町)をもって、村の難儀、用水掛りに相談、真岡代官所へもお願い内見していただきました。しかし、その後で代官も代りこの案件が流れ、村は次第に困窮し、百姓相続が難しくなりました。地頭様の用水堰普請についての書状持参する間、別格のご慈悲をもって、村を救うため何卒(なにとぞ)内見(かいそん回村)くだされますようお願い申しあげます。

 今まで通り百姓相続ができますよう、仰付(おおせつけ)くだされますれば有難き仕合せに存じたてまつります。」
以上

天保二辛卯(しんう)年
十一月晦日(みそか)常州真壁郡青木村

下 組 百 姓
吉左衛門、仙吉、定右衛門、友吉、重兵衛、元三郎、岩吉、周蔵、平次右衛門、常治、茂十郎、助右衛門、岩蔵、五右衛門、芳兵衛、鹿蔵、元右衛門、勇助、善六、柳蔵 〆二十人

上 組 百 姓
与右衛門、嘉兵衛、源兵衛、直松、国吉、清吉、新吉、嘉左衛門、伊兵衛、敏蔵、儀兵衛、長左衛門、弥六

名 主  柳蔵
同    勘右衛門
組 頭  喜助 〆十七人
同    善六
百姓代  勇助
     喜助
     勘右衛門
上下〆三十七人

野州桜町御役所

二宮金次郎様


 この文章から、百姓の血の叫びに対し、地頭(川副氏)の治政が百姓まかせの丸投げ、無為無策ぶりが読みとれます。

 青木村名主舘野勘右衛門の生家。後に、苗字帯刀を許され、代官役を仰せ付けられる。(現当主 舘野正雄氏)



文:舘野義久
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