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よみがえる金次郎

【拾参】青木村の復興


 青木堰が完成したことによって、村はめきめきと復興していきました。田には水が満々(みちみち)、余水は高森村、羽田村にまで及び村の様子は一変しました。

 尊徳は今までの苦労に報いるため、親孝行の者やよく働き誠実善良な者を選んで表彰しました。道路をつくり、橋をかけ、荒地開発、資産の貸出し、生活の苦しい者には種籾(たねもみ]、肥料代、鍬、万能(まんのう)などの農具を給与したので、本来の農業に競って励むようになりました。

 このため、荒田畑の開発も進み、天保4年(1833)には14町4反も開田、新規開発田は貢租が免ぜられるため、増収分は、尊徳より提供されている資産の返済に向けられたのです。

 領主川副氏への年貢も米80俵、永30貫余(畑作分)と決められたから、余剰の米穀は全て村の復興開発資金となったため、収穫も倍増、生活への喜びも湧き、充実していきました。
 天保5年から同11年までの7年間に、田畑16町5反を開発、その他溜池の造成、堰普請(毎年補修)堀の開鑿(かいさく)(新しく堀を造成)、家屋の改築、屋根替え等を実施、人夫延べ4千余人、これに要した費用770余両を支出しました。

 今でいう手作り、村独自の公共事業を青木村では展開していたのです。

 天保8年(1837)には、冥加米(みょうがまい)(領主に対するお礼米的性格)218俵を出すほどの裕福な村となったのです。この年は歴史上有名な「大塩平八郎の乱」が起こっています。全国的な大飢饉、百姓一揆が起き、餓死者が続出する始末です。

 近隣の農民の困窮は大変なものでしたが、青木村では1人の餓死者も出さず、桜町(二宮町・尊徳仕法成功の村)と同様、1戸5俵の雑穀を保有することができ、村民一同尊徳に感謝しました。(当時、青木村へ行けば、温かい飯が食えるといわれた。)

 しかし、”好事魔多し(こうじまおおし)“というべきか、天保8年には青木村に疫病が発生、多くの人が病臥(びょうが)に伏すということになるのです。

 このとき病気にかからなかった村役人、仕法責任者の舘野勘右衛門は、大和田山城(やましろ・注1)と相談、薬用、看護を専ら世話し、農事は新吉(名主・現当主鈴木忠雄家)、喜助(組頭・現当主栗嵜博家)、勇助(百姓代・現当主廣澤洋一家)が率先引き請け、元気な者を動員し、蒔付(まきつけ)、草取り、手入れなど援助したが、人手不足は避けられず、他村より人足を雇って農耕を行ったのです。

 この時の費用は、仕法余剰金より、無利息7ヵ年賦として貸付けられ、人足代40人分、種籾1140俵に及びました。このことがきっかけとなって、村内には相互扶助の精神、尊徳の教えである「推譲(すいじょう)」の心が芽生えはじめるのです。


大和田家(入毋屋昇殿造り・いりもやしょうでんづくり)
 間口12間×奥行8間、もとはかやぶき重層屋根、現在は銅板ぶき。(現当主 大和田久夫氏)


(注1)尊徳と親交のあった、大和田山城(敦房)は仕法で起る問題では仲介役を務めている。
 青木神社の神官で医師、当家の祖は戦国大名佐竹氏の一族で、古くから青木村に土着、家紋も佐竹氏と同じ「日の丸扇の五本羽根」。
 長子の外記(げき)(英房)は水戸藩天狗党に参加


文:舘野義久
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