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よみがえる金次郎

【拾五】青木村の反乱


 青木村における尊徳仕法の経過を見るとき、最大の功労者は名主勘右衛門の優れた指導力と、土地を愛した農民の団結力に帰結します。
 しかし、最後まで大成功の図式を描くことが出来なかったのは、領主川副氏の分度、財政収支の確立が出来なかったということです。

 その点、桜町仕法の場合領主の分度確立がなされ、それが実行されたということです。また、尊徳の後楯(うしろだて)として小田原藩主大久保忠真があったという点、青木村の場合とは大きな差異がありました。

 青木村仕法は、領主側からの依頼で出発したものではなく、村民の「一村救済」という農民自身の止(や)むに止(や)まれぬ熱意が、尊徳を動かしての事業だったのです。
 領主川副氏には、積極的に農村救済という方策もなく、消極的な姿勢が常にまつわり、仕法推進の足枷(あしかせ)ともなっていたのです。領主川副氏の分度設定を文書化されなかったことも、後になって問題が惹起(じゃっき)することになります。

 尊徳が青木村に入った時、あまりにも困窮のはなはだしきを見て、とりあえず村民の願いである堰の築造を聞き入れ、併せて、報徳金の導入による借財の返済を行ったのです。

 その上、川副氏のためにも根本的な財政立て直し、分度の確立を進言しますが用いられず、その場しのぎの状態が続き、領主の財政は苦しくなり、借金が重み、その負債は農民側に押しかぶされるという始末でした。
 せっかく村が立ち直り、これから農民の生活も楽になるという矢先、尊徳との約束を破って、たびたび献納金の名目で、多額の金子(きんす)を上納させていたのです。

 川副氏の財政立て直しが出来なかった原因は、長い間収支に見合う生活、分度を確立しての生活をしてこなかったからです。その上、領主を取り巻く用人たちの人材不足も大きな原因と思われます。川副家には先見性のある人物は見当たりませんが、当時の旗本領は、おおかれすくなかれこのような状況でした。

 弘化3年(1846)には、領主川副勝三郎の江戸屋敷が火災で焼失、青木村には長屋門の建設資金として、135両の献納金が申し付けられました。これらの費用は年貢とは別の納入金、村の負債となります。
 村ではこれらの負債を如何にして行くべきかを相談しているところへ、領主の日光参詣金として必要、すみやかに年貢米、冥加米(みょうがまい・新田開発で得た所得からの税)永(えい・畑作の税金)の皆済(かいさい)を村役人を通して伝達されました。

 そこで農民たちは、年貢、冥加、永などの皆済は無理な申し付けであると、再三にわたり善処方を申し入れましたが、埒(らち)が明かず、遂に反対の実力行使に出たのです。
 時に、弘化4年(1847)12月26日から29日までの4日間、青木神社に集合、明神山に立て篭こもり、年貢皆済反対ののろしを上げたのです。


▲弘化4年(1849)青木村農民が不当な年貢皆済に反対、千日間にわたり山篭もりした明神山(向かって左の山)。


▲羽田北山(向かって右の山)山麓にある薬王寺(天台宗)の山門、二宮尊徳築造の青木堰遺構で建立した。


文:舘野義久
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