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よみがえる金次郎

【拾七】分度


 尊徳の生きた幕末は、まだまだ衰えたとはいえ、幕府の権力が強いときに、農民の幸福を願っていたということで、領主と事を構える革命的行為(百姓一揆)に尊徳は、否定的な考えを持っていました。
 常に、農民がどのようにすれば幸福になれるかを考え、その筋道を立て実行した方が、生活の立て直しに役立つと考えたのです。

 農民に希望を与え、明日への展望を切り開くことは、尊徳の考えた農村改革(尊徳仕法)が、当時としては最善の方策でした。

 この仕法というのは、重税にあえぐ農民の生活を安定させるには、領主からの税をゆるめる減税策が目的だったのです。どんなに農民が努力しても、重税の下では生きる意味がないのです。
 堰の築造も、耕地の改良も、水路の整備も、それが生産力を高めれば高めるほど、一方では重税となり、領主を利するだけでは農民にとっては、たまったものではありません。

 だから尊徳は、桜町(二宮町)でも、青木村でも、下館藩でも領主に対し「分度(ぶんど)」を立てない改革には力を貸せないという、強い信念で農村復興策を引き受けるのです。「二宮の仕法というのは、上を制して下を厚くするもの」といって、反対する武士階級があったことも事実でした。

 青木村の領主川副氏も、尊徳との分度の約束を破って重税を課してくるため、尊徳と反目(はんもく)することが多々ありました。

 「分度」とは、尊徳の考えの中心で、身分や収入に応じて、支出に一定の限度を設け、その範囲で生活し、余りを生む生活設定をいう。

 尊徳は、自分を政治家だと思ったことはありません。どこまでも農民の立場に立って物事にあたった意味では、偉大な農政家でした。尊徳は「百姓は、田畑を耕し、立派な収穫をあげるのが一番よい。百姓が政治に口を出すと身を滅ぼす元になる。」と戒め(いましめ)ています。

 尊徳が青木村仕法に取り組んでいた時代、イギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの外国船が来航し、開国を迫っていました。
 外国船を打ち払えとか、打ち払わないとか、という攘夷(じょうい)論が盛んになりましたが、尊徳にとっては、それよりも目の前の飢えた農民を救う方が大問題だったのです。それが尊徳的(農民出身の二宮金次郎)な生き方とも言えるのです。

 青木村の農民も、徹底した尊徳の行き方に共鳴、自分の身の丈にあった分度ある生活を守り、知恵を出し合い、堰の修復に努め、村の繁栄を願いつつ事に処し、自立の道を歩み続けたのです。[/size]


▲青木用水堰 桜川しめ切り用水堰全図 嘉永3年(1850)3月 


▲青木村用水堰枠組全図 水門枠組

 二宮尊徳は嘉永元年幕府に登用され幕臣となり、百姓のため、領主川副氏から仕法を引き継ぎ堰の修復を行っている。その時の用水堰築造と水門枠組図
 (廣澤光一郎氏所蔵)
 
 
文:舘野義久
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