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よみがえる金次郎

【拾八】尊徳の苦悩


 仕法の結果、旗本領青木村の耕地は、40町歩から70町歩に増えていたのです。この旗本領はもともと経済的には、生産性が脆弱(ぜいじゃく)なくせに、徳川直参(じきさん)などと言って専横(せんおう)な振舞をする特殊な性質を持っていたのです。

 7割もの耕地の増加に、年貢は25石から90石へと、4倍近い数字がそのことを如実(にょじつ)に物語っています。そのうえ畑作の金納も2倍に増えていたのです。

 そんな領主川副氏の仕打ちに歯ぎしりする尊徳。約束が違うと怒る青木村の農民。その責任を一身に背負う尊徳。そんな中にも、一抹(いちまつ)の光明を見出す。家数も20軒増え、人もそれにふさわしく増加し、村の雰囲気に活気が見えてきました。

 尊徳としては、領主に収入の増えることを約束しているとはいえ、農民にも精を出せば、ほどほどの暮らしを保護すると言ってきた手前(領主に対する約束を果たしただけで、これでは青木村の農民を裏切ることになる。)と、心を痛めるのです。
 尊徳にも出来ることと、出来ないことがある厚い壁「封建制度」の狭間(はざま)で苦悩するのです。

 大名領(旧雨引村、真壁町など笠間藩牧野領)ならば五公五民、六公四民という枠が決められ、作柄によって増収となれば農民の手元にもそれなりの残りの米も増え、生活に潤いが生まれます。
 それが豊臣秀吉以来の定免制(じょうめんせい)で、増収分を全部取り上げることはしなかったのです。
 大名領は、幕府の藩への規制があったため、農民を疲弊(ひへい)から守り、緩和していたのです。それが旗本領では、歯止めがきかず徴税だけが先走り、農民を苦しめたのです。

 青木村の行く末に不安を感ずる尊徳は、報徳金の融資などによる援助を続けますが、尊徳自身の幕臣登用、日光神領の仕法開始と、多忙な日を送る中で高齢化してきます。(青木仕法47歳、幕臣56歳、70歳没)
 やがて青木村との縁も薄れていくのですが、村民は、尊徳の手になる堰を守る事業には、寝食を忘れ協力するのです。

 「領主にまかせておいては、堰の老朽化を防ぐことは出来ない。二宮様に申し訳が立たない。」と、昔のように田の水回りも悪くなるという悪循環を断ち切るため、青木村の農民は、毎年堰の修復を「自普請(じぶしん)」で続けてきたのです。

 尊徳から教えられた勤労の尊さ、分度ある生活、積小為大(せきしょういだい)の心を忘れず村づくりに励むのです。




▲為無縁先祖代々菩提営之碑
天保6年(1835)村中供養塔青木阿弥陀墓地内に建立
生活に苦しみ離村した59名の元青木村農民の名が刻まれている。


文:舘野義久
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