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よみがえる金次郎

【弐】校庭の金次郎像


 二宮尊徳と深いかかわりのある青木(尊徳仕法の地)の人達に「二宮金次郎のこと知っているか尋ねますと」、「小学校の校庭にあった金次郎像と、青木堰のことは知っている。」と答えてくれます。
 また、村内の多くの人達も「薪(たきぎ)を背負い、読書する金次郎像」については、ノスタルジア(郷愁)を感じながらも知っているといいます。若者の中には、今の時代本を読みながら歩いていたら、交通事故にあってしまうという話も返ってきます。

 ところで、なぜそれ程までに、小学校に金次郎像が設置されたのか、当時の文部省が命令したわけではありません。
 卒業生や地域の篤志家(とくしか)(昭和15年岩瀬小学校寄附太田平太郎氏)が寄贈しているところに、この像の特徴があります。

 薪を背負って本を読む金次郎像の成立については、尊徳の高弟、富田高慶(相馬藩士、尊徳の娘文子の夫)の「報徳記」にある「採薪の行き帰りにも、大学(中国の古典)を懐にして、歩みながらこれを唱して、少しも怠らず」の記述を根拠にしていると思われます。
 報徳記では明治16年(1883)宮内省より発行されますが、同23年には、大日本農会が出版し、広く一般に普及されました。

 そして、薪を背負う金次郎の画像は、幸田露伴著の「二宮尊徳翁」のさしえ挿絵がはじめてです。
 後に、農商務省の委託を受けた秋日田家図(幸野楳嶺画)に、薪を背負って本を読む少年金次郎の絵が登場します。
 明治43年(1910)になると、岡崎雪聲(せつせい)の鋳金による金次郎像が制作され、東京彫工会に出品されます。
 それを宮内省が買い上げ、明治天皇の机上に置かれ愛用されていたことが、二宮金次郎像を世に広めるもとにもなります。現在この作品は、明治神宮の宝物となっています。

 実際に金次郎少年像が、全国の小学校の校庭に立つようになったのは、昭和に入ってからです。
 しかし、第二次世界大戦後これまで日本の教育の考え方が逆転し、二宮尊徳に対する価値観までもが否定され、私たちが朝な夕な仰ぎ見た少年金次郎像が、校庭の片隅に転がされたり、取り片付けられる始末です。

 今、当時の混乱期をふりかえりますと、敗戦の衝撃・虚脱感は、もってゆきどころのない感情となって、罪のない少年金次郎像に投げつけていたように思われます。

文:舘野義久
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手本は二宮金次郎
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