桜川市 アクセス エリアマップ 利用ガイド 
トップページさくらがわーるどレポートさくらがわーるどゼミナールさくらがわーるど商店街
よみがえる金次郎

【五】青木村の変遷


 二宮尊徳による「青木村仕法」を考える場合、どうしてもこの村の地理的・歴史的な経過を考察する必要があります。

 この村の地形は、雨引山・加波山から切り離された山塊で、青木古山は113メートル、羽田との境をなす羽田北山は130メートル、山塊最高の羽田山で172メートルと低く、針葉樹、広葉樹林が分布し、里山として農業に適していますが、水量が細くこの山から流れる水を、ため池に貯水し稲作の用水としています。
 
 山麓扇状地の西、高森の台地との間には、岩瀬町山口「鏡ヶ池」を源とした桜川が貫流しています。
 この河川は、排水的な役割しかなく、ここから揚水して稲作に利用したのは後の時代です。

 6世紀頃、この山塊は朝廷の治めるところとなり、族長クラスから集落の上層ぐらいまでの古墳群となりました。
 青木・羽田には古墳が集中、青木神社の南面「堂の入り古墳」からは、人物埴輪「ひざまづく武人像」(国指定重要文化財−国立博物館保存)が出土しています。そのことは、この地域に稲作が早くから開かれていた証です。

 古墳から中世にかけての用水体系は、ため池のあり方に規制されていました。青木では、金ヶ入池・中島池・白山池等があり、水田耕作の主要な役割を果たしています。
 山間部では、谷津田(羽田地区)が大部分、それが近世になると、用水を河川に求め、用水路による水田経営へと発展、耕地の拡大は飛躍的な生産を可能としました。桜川流域の青木・羽田の肥沃な洪積地も、鉄製農具のすき鋤によって開田され、生産量の増加ははかり知れないものがありました。しかし、そこには常に水不足の問題があったのです。

 ところで、青木ほど領地の支配関係が複雑で、変遷の多かった村はめずらしいです。古くは真壁郡ともべ伴部郷に属し、中世になって中郡荘となり蓮華王院領(天台宗の京都三十三間堂寺院として有名)、その後、小栗氏、宇都宮氏、結城氏の支配をうけ、秀吉の太閤検地(1594)で西那須郡に属し、元禄になり真壁郡に編入されます。

 江戸時代になると領主の変遷が激しく、慶長6年(1801)真岡藩主浅野長重の領地、その後、堀ちかよし親良、笠間藩永井直勝、豊岡藩杉原長房の飛地、土浦藩朽木種綱(くちきたねつな)、同土屋政直など藩領の飛地的存在から幕府領となりました。
 それでも一時、天和3年(1683)村の約半分550石が高麗(こま)長好の知行となり、元禄11年(1698)から同15年(1702)までは、4人の旗本知行の分割支配も受けました。
 
 それが宝永5年(1708)川副(かわぞい)新右衛門頼賢(よりたか)の知行となり、世襲されて明治維新を迎えるのです。
 二宮尊徳仕法が行われる当時の領主は、川副勝三郎よりのり頼紀、知行石高は1550石(青木村の外新治郡川俣村、根本村、成井村、中根村、柴内村、金指(かなざし)村、加生野(かようの)村、武州埼玉郡白岡村、下大崎村の9ヶ村)そのうち青木村の石高は850石と、知行地の中で最も大きな村でした。



6世紀始め頃の青木古山の山頂(113.2m)にある「御堂大日塚古墳」の石棺部分、青木古墳群中最大のもの



青木神社の南面「堂の入り古墳」から出土した人物埴輪「ひざまづく武人像」国指定重要文化財(国立博物館所蔵)


文:舘野義久
プリンタ出力用画面
前のページ
金次郎の生い立ち
コンテンツのトップ 次のページ
青木堰
ホーム アクセス マップ ガイド メール