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よみがえる金次郎

【六】青木堰


 二宮尊徳が築堰(ちくせき)した「青木堰」は、桜川の上流青木地内にかかる堰です。ここの土質は、表土が粘土のうえに、大雨で流れた黄土や土砂が積み重なった沖積土からできています。
 そのため、洪水になると氾濫し、大きな被害を起こしますが、水さえあれば見事な水田が形成され、良質の米を産します。

 ところで、はじめてこの桜川に、青木堰が設けられたときのことを記す史料が見当たりませんが、恐らく戦国大名の領内経営の一環として構築されたものと思われます。
 青木村が幕府領となり、真岡代官所(真岡市)によって、元禄15年(1694)に行われた堰普請(せきぶしん)の史料を見ますと、表1のとおりです。

 この堰普請は、真岡代官中川吉左衛門によって行われ、普請奉行は田沢源右衛門でした。また翌16年には、永12貫248匁(もんめ)、人足2452人半が堰普請の費用として追加されています。
 幕府領時代は、このような大規模の堰普請が行われましたが、宝永5年(1708)旗本川副新右衛門頼賢の知行地となって以来、代官所の支援はなく、1ヶ村限りの負担で堰修理をしなければなくなりました。

 もともと青木村の水の便は悪く、青木・羽田・犬田の山並みからの水量は細く、青木の耕地の大部分をまかなう「青木堰」の維持管理には過大な負担を強いられてきました。この用水にしても十分な水量ではなく、強い雨が降るたびに堰は決壊、そのたびに堰や堤防は築き直さなければなりません。

 それでも、この近在の村々は幕府領(天領)だったので、費用負担は青木村を含めて関係地域全体の負担とされていたのです。そのため青木村の負担は、年に100両位で済んでいました。

 それが幕府領から旗本領となったのです。幕府はもう堰の費用の負担はしてくれません。「すべて、川副殿一村負担で行え」ということになったのです。
 これは村民にとっては死活の一大事、生産性の低い米づくり、毎年堰の修復費用を課せられ、そのうえの年貢納め、収入が少ないのに過大な支出を求められることになったのです。

 現代流で言えば、国や県が管理していたものを、一小自治体にその責任を押し付けたということです。そのうえ、旗本の治政能力のなさが一層村民を苦しめるのです。
 生産性を高め農民の暮らしを保障するという、抜本的な政策を抜きにして、堰の費用を負担させるという、間違った自己責任を押し付けたのです。そのため、旗本川副領となった青木村は、次第に疲弊していくという悪循環の繰り返しとなるのです。



▲改修された現在の「青木堰」





文:舘野義久
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青木村の変遷
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疲弊する青木村
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