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よみがえる金次郎

【七】疲弊する青木村


 稲作の命は水、その水源は桜川にかかる青木堰、この堰が洪水のたびに破損するということになると、米に依存する農民の生活は根底から破壊されます。

 川副氏という小旗本領では、堰の修復は不可能、「このままでは、村は無くなる。」村人の誰しもそう思うようになりました。

 当時の堰は、現在の所よりやや下流、低い所に設けられていたため、水の圧力を受けやすく、破損する率も高かったのです。もっと上流の鍬田村(岩瀬町・笠間藩領)から取水すれば、水量も多く、堰の修復も容易ではなかろうかという考えが浮上してきました。(後にこの考えは、二宮尊徳によって実現される。)

 文政11年(1828)名主・村役や、桜町陣屋(二宮町)に二宮尊徳を訪ね青木堰の修復調査を依頼します。島村与惣兵衛(桜町領主宇津氏の家臣)、西沼村丈八(尊徳の門人・土木工事に長ける)の調査から水門の高さ2丈7尺5寸(約8.5メートル)、長さ570間(約1,100メートル)の堀工事等の費用を含め、300両という見積もりが示されます。

 これは真岡代官所も認め、笠間藩や鍬田村とも了解がつき、工事費300両の調達さえできれば、工事が始まることになります。しかし、金子(きんす)の調達が思うようにいかず、頓挫(とんざ)してしまうのです。
 
 そこで、村方は西沼村丈八の案内で、尊徳に青木堰修復の借金を申し込みますが、桜町復興事業の多忙を理由に断るのです。そのうえ、悪いことにこの計画に理解を示していた、真岡代官田口五郎左衛門が転勤、代官元締(もとじめ)(会計)の内田金兵衛と、木俣庄蔵が病死するという不幸に見舞われ、堰の計画は見通の立たないまま、時間が過ぎていきます。その間、村の疲弊(ひへい)は進み、人心は荒廃していきます。

 元禄時代130軒もあった家が39軒になってしまうのです。潰(つぶれ)百姓、逃散(ちょうさん・領主の過重な年貢に耐えられず、村から逃げること。)が続き、残る農民も生活は苦しく、一部には自棄(やけ)になり博奕(ばくち)に日を過ごすようになりました。田畑山林は荒れ、狐狸(こり)、猪が住み、萱(かや)・芒(すすき)が生い茂り、この有様を青木神社神官大和田山城方に立寄った旅の僧は、

「家ありや 芒の中の 夕けぶり」



と詠みました。夕けむりが立っていたので、家のあることを知ったという程、荒れていたのです。

 天明7年(1787)には野火を発し、北原坪32軒のうち1軒を残し全焼、残った1軒の弥五郎は青木村を去り、物井村(二宮町)に移住しました。
 「このまま座して待てば、村は滅びる。村の復旧は二宮金次郎様にお願いする以外にない。」と、名主舘野勘右衛門は決断、身命を賭して村の立て直しに立ち上がるのです。
 村民一同を屋敷に集め、村のおかれている厳しい状況を説明、一致して行動することを誓うのでした。

 天保2年(1831)11月30日、師走の迫る寒天の朝、名主勘右衛門一行は37名の連署を懐(ふところ)に、桜町陣屋の二宮尊徳へ嘆願書を提出するのです。



はじめの青木堰は、現在の堰よりやや下流にあった。堰の遺構が残っている。


文:舘野義久
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