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将門伝説【3】



野本合戦


 承平5年(935年)2月、「君の前」(君子)は、実家の父・平真樹(大国玉)に初孫を見せ、家族団らんの安らぎを得ていました。

 数日後、将門は妻子と少人数の供者を伴い、豊田の館(千代川村鎌庭)への帰路についていました。
 谷貝、宮後を過ぎ野本付近(明野町赤浜)で、源護の長男・扶、その弟、隆・繁三兄弟の軍勢に待ち伏せされ、襲撃を受けました。将門には、多少の警戒はしていましたが、全くの不意打ちでした。

 この襲撃には、石田の館(明野町東石田)に住む伯父の国香が加担していたのです。野本は彼の所領ですから、国香の支援なしには、この地で将門の命を狙うなどは出来ないことです。それが決行されたのです。
 危険を感じた将門は、妻子を茂みの山林に隠し、少人数とはいえ豪の者、人馬一体となって戦い血路を開きました。急を聞いて駆けつけた、舅の真樹の軍勢に助けられ、戦いは勝利しました。

 実戦に不慣れな公家育ちの扶らは、烏合の衆となり追い詰められ、三兄弟は敗死、伯父国香は石田の館で自殺しました。
 勢いを得た将門軍は、積年の恨みを晴らそうと敗軍の追撃、石田の館・源護の本営(大串)、本木の居館などが襲われ灰燼(かいじん)と帰しました。源護は、本木の館から命からがら、娘の嫁ぎ先水守も良正を頼って逃げのびました。

 その様子を「将門記」は、「筑波・真壁・新治(旧)三郡の伴類の居宅五百余家を焼き払う。哀しいかな、男女は火のために薪となりぬ。」と記し、合戦の激しさを語っています。


 本木に居館を持つ源護(みなもとのまもる)は、おそらく嵯峨(さが)源氏(嵯峨天皇809〜823年在位)の嫡流として、「源」の姓を賜わり、常陸国府の高官大掾(だいじょう)職を得て都から赴任した人物と思います。

 しかし、官職を辞めた後も京には帰らず、常陸に留まり真壁・新治郡内(大和村本木や下妻市大串など)に広大な荘園を占有し土着しました。在地の勢力からは貴種の後裔(こうえい)ということで、一目おかれる存在となりました。

 一方、将門の伯父国香(くにか)も彼の後任者として常陸大掾となった人物で、共に職務上の利益と秘密を分け合う間柄でした。そのうえ、国香の長男貞盛(さだもり)の妻は、護の末娘だったのです。姉二人は、平良兼(たいらのよしかね)(真壁町羽鳥)と平良正(たいらのよしまさ)(つくば市水守)に嫁がしていたのです。

 この桓武平氏(桓武天皇・781〜806年在位)嵯峨源氏の二大氏族が新しい姻戚血縁同盟を形成したことは、早くして父を喪った不遇の甥、将門を犠牲の生贄(いけにえ)にすることになります。
 従五位下常陸大掾として「平」の姓を贈られた高望王(たかもちおう)の子孫は、常総一帯に比類ない荘園と武力を誇示していました。
 ところが、高望王の死後血縁の紐帯(ちゅうたい)は、新規の血縁によって破られ、見事に崩れ去ろうとしていたのです。
 血で地を洗う凄惨な争い−天慶(てんぎょう)の乱−の濫觴(らんしょう)の芽が出ていたのです。


文:舘野義久

取材協力
浜田祐造さん(NHKディレクター)
プリンタ出力用画面


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